小説版『とある魔術の電脳戦機(バーチャロン)』感想(2016年03月09日〜 05月14日)


セガの対戦ロボットアクションゲーム電脳戦機バーチャロンシリーズと、電撃文庫学園異能ラノベ鎌池和馬とある魔術の禁書目録』のコラボ作品である『とある魔術の電脳戦機(バーチャロン)』(以後『とあるバ』)のゲーム版の発売日が決まったりPVが公開されたりしたようなので、記念に小説発売当時の自分の感想ツイート(+企画発表時の反応+他アカウントの関連ツイート)を改めてまとめておきます。togetterを使ってもよかったのですが、セルフまとめはブログでやれと言われることが多いので、今回はブログで。

一応、自分のバーチャロン履歴を述べておくと、最後にちゃんとプレイしたのはPS2のMARZまで。アーケードでのプレイ経験はほぼ無し。『とあるバ』のゲーム版を購入する予定は今のところありません(そもそもVITAもPS4も持ってない)



(発売前)


















(発売後)


























以上です。

いま改めて付け足すようなことはそんなにありませんが(やっぱりサーフィンはやってほしかったなあああといまだに思うぐらい)、小説の感想とは別にいくつか。



『とあるバ』小説版以前から、電撃文庫SEGAは「電撃文庫創刊20周年大感謝プロジェクト」の一環として「電撃文庫 VS SEGA」と題したコラボレーション企画を複数展開していました。

電撃文庫 VS SEGA | 電撃文庫創刊20周年大感謝プロジェクト | AMW

その第4弾であり、最も規模が大きいと思われる企画として、電撃文庫作品のキャラクター達が(なぜかセガの世界で)戦う格闘ゲーム電撃文庫 FIGHTING CLIMAX』があります。そして、このゲームのプロデューサーの一人は、バーチャロンシリーズのプロデューサーでもある、Dr.ワタリこと亙重郎でした。

電撃文庫 FIGHTING CLIMAX IGNITION

電撃文庫 FIGHTING CLIMAX IGNITION

『とあるバ』自体が「電撃文庫 VS SEGA」に含まれるのかははっきりしませんが(電撃文庫 VS SEGAのページには載っていない)、少なくとも全く何も無いところから突然魔法のように湧いて出た企画ではない、ということは分かってもらえるでしょうか。

また、『とあるバ』以前にもバーチャロンには複数のコラボ、クロスオーバーの実績があります。たとえば、スパロボことスーパーロボット大戦(説明するまでもないでしょうが、複数のロボット作品(主にアニメ)のキャラクターとロボットが一堂に会するシミュレーションRPGです)。バーチャロンは、2005年の第3次スーパーロボット大戦αを皮切りに、既に三度の参戦を果たしています。

第3次スーパーロボット大戦α -終焉の銀河へ-

第3次スーパーロボット大戦α -終焉の銀河へ-

スーパーロボット大戦K(特典無し)

スーパーロボット大戦K(特典無し)

スーパーロボット大戦UX - 3DS

スーパーロボット大戦UX - 3DS

加えて、この最後のスパロボUXバーチャロンシリーズ名義で参加している「フェイ・イェンHD」は、女性型バーチャロイドバーチャロンシリーズにおける巨大ロボット兵器の総称)フェイ・イェンと、言わずと知れたクリプトン・フューチャー・メディアボーカロイド初音ミクのコラボキャラクターです。

COMPOSITE Ver.Ka VIRTUAROID VR-014/HD フェイ・イェンHD

COMPOSITE Ver.Ka VIRTUAROID VR-014/HD フェイ・イェンHD

フェイ・イェンといえば、初代バーチャロン当時に発売されたドラマCDでは、現実世界でバーチャロンを遊ぶ少年達が時空の歪みに巻き込まれ電脳歴(バーチャロンシリーズ内での紀年法)の世界に迷い込み、オリジナルフェイ・イェン*1(姿は等身大の美少女。ブックレットでカトキハジメ画の美少女版フェイ・イェンも見られる)と出会って……という、バーチャロンに“硬派”を求めていた人々は恐らく卒倒したであろう物語が展開されていました。これは別に原作無視の暴走などではなく、プロデューサーの監修を経た内容であり、二作目の「COUNTERPOINT 009A」に至ってはDr.ワタリ自身が脚本を書いています。

電脳戦機バーチャロン サイバーネット ラプソディー

電脳戦機バーチャロン サイバーネット ラプソディー

CYBER TROOPERS VIRTUAL-ON COUNTERPOINT 009A EPISODE#16

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さらに言うと、そもそもフェイ・イェンというキャラクター自体が、ある意図をもってバーチャロンというゲームに持ち込まれた存在でした。

SRV-14フェイ‐イェンは、その形状や攻撃方法が一部で物議を醸した異色の女性型バーチャロイドである。「バーチャロン」のリリース時、いわゆる「ガンダム・リアル」にあてはまらない異分子として敵視、或いは「無いもの」として無視されるという不幸な扱いを受けた。しかし、フェイ‐イェンは形骸化した教条主義ガンダム・リアルへの盲信&盲従に対する警鐘として、バーチャロン・ワールドに投入されたのである。
注意すべきなのは、そのデザイン・フォルムが、日本のアニメ・ロボット文化におけるトラディショナルなラインを継承しつつ、これを無自覚に踏襲することに疑問符を提示している点である。縮小再生産の袋小路に閉じ込められて自らの進むべき道を見失った時、束縛を破る強い心が求められる…そんな彼女のコンセプトは、バーチャロンある限り今後も脈々と受け継がれていくことになる。

(『CYBER TROOPERS VIRTUAL‐ON REFERENCE SCHEMATIC電脳戦機バーチャロン副読本』(ソフトバンククリエイティブ)より*2

さらにさらに言うと、今は亡きゲーム雑誌『ゲーマガ』の前身の前身の前身である『セガサターンマガジン』では、『銀河お嬢様伝説ユナ』やMS少女*3などで知られるメカデザイナーイラストレーターの明貴美加氏による擬人化企画「バーチャロイド少女」というものが存在し……

さすがにキリがないのでこの辺にしますが、要は何が言いたいのかというと、バーチャロンというシリーズは昔から、その始まりから、ある種の「外側」を志向する性質を備えていたということです。良くも悪くもプレイヤーの予想を裏切り、固定観念を打破すること。実際にそれがどこまで実現できていたのか、また作品の質の向上にどの程度繋がっていたのかは別にして、バーチャロンの目指す理想の一つはそういうところにもあったのではないでしょうか。

わたしのようなニワカが偉そうに言えたことではありませんが、それを忘れている人がもしもいるのであれば、この機会に改めて思い出していただければ、と。今になって「萌え豚に媚び売る感じ」とか言い出したって、予約特典でサイズ別のおっぱいパーツ付けるようなゲームなんですよ?

バーチャロンのこの、挑戦者・破壊者としての姿勢が頭に入ってさえいれば、15年ぶりの移植ではない完全新作が禁書とのコラボになったことのひとつやふたつ……まあ、やっぱり、ビックリはするわな。





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*1:本来のフェイ・イェンは、天才科学者が作り出した世界に一体しか存在しない単なる兵器を超えたバーチャロイドであり、ゲームに登場するフェイ・イェンはその不完全なコピーに過ぎない、というややこしい設定がある。

*2:この部分の執筆者ははっきりとは分からないが、恐らく亙重郎

*3:MS少女 - Wikipedia「MS少女(えむえすしょうじょ)は、アニメ「ガンダムシリーズ」に登場するモビルスーツ(MS)の外装を、美少女にコスプレさせるようにデザインされたキャラクター群の総称。」

台湾ラノベ翻訳姫氏( https://twitter.com/harakoatom )による嫌がらせについて

現在Twitter上で、あままこ氏(id:amamako https://twitter.com/amamako?s=09 )の、現実の社会問題が扱われているので台湾のラノベは日本よりも「進んでいる」、といった主張をめぐって、主にわたしとあままこ氏との間で論争、のようなものが起こっています。

これは未だ継続中の問題であり、後の機会に総括を行いたいと考えていますが、今回はここから派生した別の問題についての話です。


原子アトム

議論の発端となった台湾ラノベに関する記事でインタビューを受けた本人であり、以前から台湾ラノベの翻訳活動を続けている台湾ラノベ翻訳姫=原子アトム氏( https://twitter.com/harakoatom )が今朝、上のまとめについて以下のような言及をしました。

https://twitter.com/harakoatom/status/905231123403309056
https://twitter.com/harakoatom/status/905231708982673409
https://twitter.com/harakoatom/status/905232941286023169
https://twitter.com/harakoatom/status/905234291587670016
https://twitter.com/harakoatom/status/905234525952737280
https://twitter.com/harakoatom/status/905244023387938816

主張の要旨は、台湾ラノベは別に社会派ではない、ということのようです。それは別に構いません(「社会派」という言葉を、作家本人の政治的な主張が直接的に込められているもの、という意味に限定しているように見えるのは気になりますが)

問題は、わたしとあままこ氏の「台湾ラノベに関する意見」をどちらも的外れとしており、そして、その両者について「ブロック推奨」と自分のフォロワーに向けて呼びかけている点です。

上のまとめを読んでもらえれば分かりますが、そもそもわたしは一貫して、あままこ氏による「台湾ラノベに関する意見」(と、そこから派生した日本ラノベ批判)に反応しているだけであって、台湾ラノベそれ自体についてはほとんど語っていません。「的外れ」とされるわたしの「台湾ラノベに関する意見」とは、具体的にどの発言を指したものなのでしょうか。

また、ご存知のように、ツイッターにおけるアカウント凍結の基準には、他アカウントからの被ブロック数が含まれています。

Twitterは不正利用やスパムからユーザーを守るよう努めています。以下のような行為をしているアカウントは、一時的または永久に凍結されることがあります。

スパム行為と見なすかどうかの判断では、以下の点が考慮されます。

多数のユーザーにブロックされている場合

台湾ラノベ翻訳姫氏は、6000以上のフォロワー数を抱えるちょっとしたアルファツイッタラーです。もし仮にこの全フォロワーが、いやその半分であっても一度にブロックを実行したなら、わたしのアカウントは恐らくひとたまりもなく凍結させられてしまうことでしょう。

どこかで妙な誤解があるなら解いておきたいし、何よりこんな言いがかりで大切なアカウントを凍結させられてはたまらないので、以下のリプライを慌てて台湾ラノベ翻訳姫氏宛に送りました。



その結果、

f:id:srpglove:20170906214649j:plain

最終的にはブロックされることになるかもしれないと覚悟はしていましたが、まさか、そもそも自分の方から@を付けてこちらに言及しておいて、最初の一歩で即シャットアウトされるとは思いませんでした。

言うまでもありませんが、台湾ラノベ翻訳姫氏は、わたし(とあままこ氏)のアカウントへのブロックを扇動するツイートを、未だに削除していません。そのため現在は、いつ凍結されることになるのだろうかと怯えながらツイッターを利用することを強いられています。



翻訳姫氏がなぜこのような行動を取るに至ったのかは自分には分かりません。ただ、ひとつ言えるのは、以前に氏が、とある台湾ラノベの日本での翻訳出版を実現させるために署名を集めてGA文庫編集部(SBクリエイティブ)に持ち込んだものの敢えなく断られた時には、わたしは(署名600人ってちょっと少ないんじゃない?と思いつつ)少なからず同情をしていたものですが、今では、このような人物による持ち込み企画を一蹴したGA文庫編集部の判断は結果的に正しかったのではないか、と考えるようになったということです。

氏の翻訳者としての能力のほどは詳しく知りませんが、たとえどれだけ優秀であったとしても、自分の言動が引き起こした事態の責任を取ろうとしない人間と仕事をするのは、企業としてはあまりにリスクが高過ぎるでしょうから。



台湾ラノベ翻訳姫氏に対しては、もはや謝罪や誤解の解消などは求めないので、とにかくアカウント凍結目的のブロック扇動ツイートだけは削除してもらいたいのですが、窓口がTwitterFacebookのみのようなのでどうしたものか(わたしはFacebookのアカウントを持っていません)

https://m.facebook.com/harakoatom/




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ロードス島戦記は「ラノベ」か「ハイファンタジー」か問題、総括

数日前のとあるツイートをきっかけに、20年以上前に刊行されたひとつの小説がにわかに話題になった。

その名は『ロードス島戦記』。四国によく似た呪われた島ロードスを舞台にした、剣と魔法と尖り耳エルフの壮大な異世界ファンタジーだ。

当時日本ではまだ馴染みの薄いゲームだったテーブルトークRPGD&D)の紹介のためのリプレイとして初めて世に現れ、それを元にゲームマスター水野良自身が小説化。初期の角川スニーカー文庫(角川文庫青帯)を代表する人気作品として、レーベルの礎を築く。以後、続編・派生作品も生まれ、また、コミック、アニメ(OVA、TVアニメ)、コンピューターゲームなど多数のメディアミックスもあり、日本のファンタジー小説史に金字塔を打ち立てる作品となった。

ロードス島戦記三昧 アニメDVD付き特装版

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そんなロードスが、今回ツイッター上ではどのような形で取り上げられたのか。事態の流れを簡単に整理しておく。

まず、5月22日、「我々世代のラノベ四天王」と題して、ロードス島戦記を含む80年代末から90年代前半にかけての著名ライトノベル四作品の表紙画像が添付されたツイートが投稿される。

これが最終的には一万を超えるほどRTされ、広く拡散された。

そして、くだんのツイート及びそれに触発された?「みんなの初ラノベ教えてよ」タグ及び関連まとめ(「ロードス、スレイヤーズ、フォーチュン、オーフェン、我々世代のラノベ四天王!」「オーフェン、俺ら四天王で一番の新参過ぎない?」 - Togetterまとめ)に対して、ロードス島戦記ラノベなのか?ラノベではなく「ハイファンタジー」ではないのか?といった反応が現れる。

この、ロードスは(ハイファンタジーだから)ラノベではないという主張に対して更に、(あくまでラノベであって)ハイファンタジーではないだろう、という反論がなされる。


非常に大雑把だが、構図としてはだいたいこのような形になる。なお、ごく一部には「ロードス島戦記は“小説”ではない」という興味深い説もあったが、差し当たってはこれは無視していいだろう。

さて、この一連の状況の中には、ライトノベルと(ハイ)ファンタジーをめぐるいくつかの大きな問題が含まれている。いっそ問題しかないと言ってもよい。これについて考えてみることは、ライトノベル読者にとってもファンタジー読者にとっても*1、恐らく無意味ではないだろう、と思う。

ロードス島戦記ラノベ/ハイファンタジー論争」における問題点を、以下でひとつひとつ指摘していく。

1.角川文庫だからラノベではない?

ロードス島戦記(小説)がライトノベルではないとする集団の中には、その理由として、当初は(ライトノベルレーベルである角川スニーカー文庫ではなく)角川文庫から出版されていたことを挙げる人々がいた。これは果たして正しいのだろうか。

ロードスが最初は角川文庫作品だった、ということ自体は間違いのない事実だ。シリーズ第一作『ロードス島戦記 灰色の魔女』は、1988年4月に角川文庫から刊行されている。

ただ、ここで気をつけなければいけないのは、1988年4月時点では角川スニーカー文庫がまだ創刊されていないということ、そして、ロードスが出たのはたしかに角川文庫からではあるが、「角川文庫・青帯」であるということだ。

角川文庫・青帯とは何か。かつての角川文庫は、背表紙上部の帯の色によって作品を分類していた。緑帯が現代日本文学、赤帯が外国文学、というように。そうした状況で、1987年10月に「現代日本文学」の中でも特に少年少女向けとされる作品を独立させる形で生まれた新たな分類が「青帯」、ということのようだ。その創刊ラインナップは、富野由悠季の小説版『機動戦士ガンダム』。その他の収録作品の表紙を見ても、当初からアニメ・漫画・ゲーム的な要素を強く意識したカテゴリだったことがうかがえる*2

聖エルザクルセイダーズ集結! (角川文庫―スニーカー文庫)

聖エルザクルセイダーズ集結! (角川文庫―スニーカー文庫)

そして、1988年の夏頃からの公募により、青帯の新たな名称として「スニーカーシリーズ」が選ばれ、1989年8月には「角川スニーカー文庫」として正式に創刊、という流れになる。

つまり、角川文庫・青帯は角川スニーカー文庫の前身であり、実質的にほぼ同一の存在であると言ってもさほど間違いではない。

実際ロードス島戦記も、2巻『炎の魔人』までは角川文庫から出版されたが、スニーカー文庫創刊後である1990年2月発売の3巻『火竜山の魔竜(上)』以降はスニーカー文庫から出ているようだ。また、1、2巻も後の版では順当にスニーカー文庫へと移行している。

ただ、当時のスニーカー文庫と現在のスニーカー文庫の性質が全く同じものかというと厳密にはそうも言えず、たとえば、かつてスニーカー文庫内の女性向け・BLカテゴリーである「ピンク帯」という枠があったが、これは後に角川ルビー文庫として独立したレーベルとなるなど、収録作品の傾向にいくらかの変化は存在する。

そして春風にささやいて―タクミくんシリーズ (角川文庫―ルビー文庫)

そして春風にささやいて―タクミくんシリーズ (角川文庫―ルビー文庫)

が、ことロードスに関して言えば、前日譚や続編がレーベルを変更することなく出続け、数年前にも新装版がスニーカーから刊行されたこともあって、スニーカー作品としてのアイデンティティを疑う要素は薄い。結論として、初期に角川文庫(青帯)から出版されていたという事実だけでは、ロードスがラノベではないことの根拠としては非常に弱いと言わざるを得ない。

(参考)
角川スニーカー文庫 - Wikipedia

ラノベ史探訪(1)-「スニーカー文庫」:名称の公募から決定まで【前編】


2.「ライトノベル」という単語ができる前の作品だからラノベではない?

ロードス=非ラノベ勢の主張として、ロードスが出版されていた当時にはまだ「ライトノベル」という用語は存在しなかった(だからロードスをラノベと呼ぶべきではない)、というものもある。この論の妥当性を検証してみる。

まずは事実関係の話から。「ライトノベル」という言葉が最初に生まれた経緯は、ありがたいことに調査によって既にほぼ確かな形で判明している。

それによると、NIFTY-Serveパソコン通信サービスのひとつ)のSFファンタジーフォーラム内の書評会議室から分割させたファンタジーの専門会議室、から更に、マンガ・アニメ的なイラスト(曖昧な概念だが何卒ご理解ご協力のほどを略)を使用した若者向け小説を専門に扱う会議室を作ることになったと。会議室の名前を決める際に、従来「ヤングアダルト」「ジュブナイル」「ジュニア小説」などで一括りにされ、また読者の間では「ソノラマ・コバルト系」「スニーカー・ファンタジア系」などと呼ばれていた一群の小説の総称を新たに決める必要があったと。そこで出てきたのが「ライトノベル」だった、ということだそうだ。これが1990年の話。

さて、90年といえば、ロードス島戦記は全7巻の内の3、4巻が発売されている年。つまりシリーズ継続真っ最中ということになる。従って、ロードス島戦記は「ライトノベル」という用語が生まれる前の作品、という主張は、少なくとも事実とは言い難い。

ただ、誕生によって即座に用語及び概念が広く共有されたわけではもちろんないだろう。これは想像するしかないが、当時のパソコン通信というのは現在のインターネットに比べれば非常に小規模なものだし、接続できる人間も限られていたはずだ。ラノベを熱心に読む層に「ライトノベル」という言葉が本格的に普及してきたと確実に言えるのは、2000年の2ちゃんねるライトノベル板新設前後になるだろうし、非ラノベ読者層も含めた拡散ということになると、『ライトノベル完全読本』『このライトノベルがすごい! 』などのラノベ系ムックが出始めたゼロ年代中ごろ(いわゆるラノベ(批評)ブーム)以降、でもまだ早いかもしれない。

ライトノベル完全読本 (日経BPムック)

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このライトノベルがすごい! 2017

このライトノベルがすごい! 2017

そういう状況を加味して、ロードスの時期には「ライトノベル」という用語がまだ(世間一般には実質的に)存在していなかった、というのであれば、まあ、まだ話は通らなくもない。

では、用語の適用のしかたについての話に移る。

仮に、ロードス島戦記の時代には「ライトノベル」という用語がどこにも存在しなかったとして。いま現在ロードス島戦記を「ライトノベル」と呼ぶことに何か問題があるのだろうか。

何も問題がないような気がするのだが。

適切な例が思い浮かばないので敢えて不適切かもしれない例を挙げてみるが、たとえば天皇天皇という称号があって、我々はふだん日常的に天皇天皇と口にしているわけだが、Wikipediaによるとこの「天皇」という呼び名が天皇に使われるようになったのは第40代の天武天皇あたりからだそうだ。では、それ以前の天皇、分かりやすいところで神武天皇を「天皇」と呼ばないかというとそんなわけはないだろう。なにが「彦火火出見」だ神武天皇のくせに。

このように、まず指示対象が先に存在していて後から名前が付けられる、また、新しい分類法が考えられ既存の対象がそこに含まれることになる、というのは、言葉の生まれ方としては特段珍しいものではないはずだ。むしろ言葉が先行して存在するケースの方が少数派では。

これが最初から分類名とセットで売り出されたような作品群及び概念、たとえば「新伝奇」*3だの「次世代型作家のリアル・フィクション」だのであれば、言葉の誕生以前に遡って適用することに抵抗を覚えるのも分かる。だが、ライトノベル的な出版形態自体は出版社側の工夫によって生まれたものであっても、前述のように「ライトノベル」という用語はあくまで受け手である読者側からの名付けである。どうしたって遡及的な命名にならざるを得ない。

というわけで、「ライトノベル」という用語がなかった頃の作品なのでロードス島戦記ラノベではない説には、妥当性がほぼないと言ってよいだろう。

また、ロードスは「ライトノベル」だが「ラノベ」ではない、という、「ライトノベル」と「ラノベ」を別物として使い分ける奇妙な論もいくつか見られたが、これも単に安易な切断操作と考えていい。


(参考)

天皇 - Wikipedia


3.ライトノベルの「ライト」

ロードス島戦記は内容が「ライト」ではなく重いからラノベではない、あるいは、「ライト」だからラノベである、という主張。

このあたりの話題に関しては以前から個人的に何度も言及しているし、この前もブログで近い話を書いたばかりだ。

ほとんど同じ話を繰り返すことになるが、上の記事を読んだ人も付き合ってもらいたい。

ライトノベルはSFやミステリのような物語内容や構成によって定義される「ジャンル」とは違い、それらジャンルを内側に抱える「器」である。そのため、すべてのラノベの小説としての中身から共通の要素を見出すことは極めて難しい。もちろん(他の小説カテゴリ同様に)完全な自由があるわけではなく、漫画・アニメ的なビジュアルを用いる*4という出版形態や、基本的には10代の若者を主なターゲットとするという点、あるいは商業出版であること自体などから、その時々でこういった作品は少ない・出しにくいといった傾向がある程度実質的な制限として機能してはいるだろう。

しかし、この「ラノベ(レーベル)に多い・ラノベ(レーベル)から出しやすい」というだけに過ぎない内容*5ラノベの「定義」として採用することは非常に危険である。なぜならたとえ現在主流ではない内容であっても実際にラノベレーベルから出ている作品を、内容を基準に(ハーレムじゃないから、転生じゃないから、チートじゃないから、会話が少ないから……)「ラノベではない」と判断してしまうことは本末転倒にほかならないからだ。



だから、ラノベをあまり読まない人々、今回は「ライトじゃないからロードスはラノベじゃない」などと言ってる人々に注意してもらいたいのは、ライトノベルの「ライト」という部分には意味がないということだ。意味がない、と言い切ってしまうとさすがに言い過ぎなので、あなた方が真に受けてるほど大した意味はない、と言い換えてもいい。イラストを多用しているという点、加えて版型が主に文庫である点、せいぜいそれら外側の要素を指して「ライト」(軽やか)と言っているのだと思ってほしい。

そして、「ライトだからロードスはラノベ」側の人々にも、仮にロードスがラノベであるとしても、それは内容が「ライト」であることとはそんなに関係がないのだと思ってもらいたい(内容はライトだしラノベだと自分も思っているが)

ついでに言うと、内容が「ライト」かどうかでラノベを判定したがる人たちが持ち出す「ライトじゃない要素」、たとえば、死を伴うような激しい“バトル”とか、緻密に練り上げられた“設定”とか、四肢切断おもしろ“レイプ”とか……がしばしば、実際はむしろラノベと親和性が高いというか、エンタメ的というか、漫画っぽいというか、場合によっては、え〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っと、ガキくさく見られることすらある代物だったりするという問題もあって……


4.ハイファンタジーの「ハイ」

ロードス島戦記ファンタジー小説であることは間違いがないが、「ハイファンタジー」である/「ハイファンタジー」ではない、そのいずれが正しいのか。

そもそもハイファンタジーとは一体なんだろうか。困った時にはすぐにWikipediaに頼ろう。

ハイ・ファンタジー - Wikipedia

ハイ・ファンタジー (High Fantasy)は、ファンタジーのサブジャンルの1つ。「異世界ファンタジー」と呼ばれる事もある。

独自の世界観や歴史をもつ架空の世界(異世界)を主な舞台とし、現実世界(の直線的な歴史や風俗)とはかかわりが薄いのが特徴の物語で、ロー・ファンタジーと対比して使われる語句である。明確な定義ではないが、

ハイ・ファンタジー:異世界(現実とは別の世界)を設定し、そこで展開する物語。
ロー・ファンタジー:現実世界を舞台にし、そこに魔法や妖精など異質な存在(ファンタジー的な要素)が介入してくる物語。

これらの違いは要素が異世界で完結するか、流入する場合の2つに分けられる。

ふむふむ。

この定義を素直に解釈するならば、異世界「フォーセリア」内の、ロードス島とその周辺(暗黒の島マーモ。面積は愛媛県ぐらい)だけで物語が完結しているロードス島戦記は間違いなくハイファンタジーと言ってよさそうに思える。

だが、ロードス=非ハイファンタジー勢があまりに堂々と自説を披露していたり、上の記述をツイッターで引用した際に、

といった皮肉を受けたりしたせいで、少々自信がなくなってきた。ロードスはハイファンタジーではない勢が(そして恐らくはロードスはラノベではなくハイファンタジーである勢の多くも)前提にしていると思われる「ハイファンタジー」の定義を検証してみよう。

ロードス島戦記は「ハイファンタジー」じゃない? - Togetterまとめ



ざっとまとめを読み直してみた感触では、異世界ファンタジーであるという点はだいたい共有されているようだが、その上で「高尚」とか「世界の作り込み」とか「海外翻訳作品(指輪とかゲドとかエルリックとか)っぽさ」などがキーワードになっているようだ。どれも曖昧なものなのでなんとなくの話になるが、これらの「ハイファンタジー」は、エピック(叙事詩)ファンタジーとかハードファンタジーとか呼ばれるジャンルに近いものを指していると見てよさそうだ。異世界を舞台にした架空の歴史小説、のようなものと定義できそうなエピックに比べると、ハードファンタジーの「ハード」はやはり曖昧だが。

こういった「高尚」基準ハイファンタジーと、異世界であるかどうかの「舞台」基準ハイファンタジーとでは、どちらが本来の用法なのか。というのは自分には断言できない。これだけの人数がハイファンタジーを「高尚」寄りに解釈しているのだから、もし仮に誤用だとしても少なくとも一時期一定の範囲においてはそういう用法、ニュアンスが主流だったことがあるのだろうし、そういう意味では「高尚」ハイファンタジー使用者への配慮もある程度必要だろうとは思う。

ただ、英語版Wikipediaの「High fantasy」のページにおいても、「ジャンル概要」では舞台を基準にしたハイ/ロー定義が載っていることには一応触れておきたい。

High fantasy - Wikipedia

High fantasy is defined as fantasy set in an alternative, fictional ("secondary") world, rather than "the real", or "primary" world.[citation needed] The secondary world is usually internally consistent, but its rules differ from those of the primary world. By contrast, low fantasy is characterized by being set in the primary, or "real" world, or a rational and familiar fictional world, with the inclusion of magical elements.[3][4][5][6]

(自動翻訳)

高いファンタジーとは、「本物」すなわち「主」の世界ではなく、代わりの、架空の(二次的な)世界でのファンタジーセットです。[ 要出典 ]二次世界は、通常、内部的に一貫しているが、そのルールは主世界のものとは異なります。これとは対照的に、低いファンタジーは、主要な、つまり「本当の」世界、または合理的で親しみのある架空の世界に、魔法の要素が含まれていることが特徴です

つまり、ハイ=異世界、ロー=現実(に近い)世界というファンタジー分類が、日本でごく最近になって勝手にでっち上げられたような(たとえば「小説家になろう」のジャンル再編時とか)ものではないらしい、ということだけは言い切ってもよさそうだ。これ以上のことは詳しい(そして英語が堪能な)人の解説を待ちたい。





(参考)


5.「ラノベ」と「ハイファンタジー」の関係

以上のことを踏まえた上で、果たしてロードス島戦記は「ライトノベル」なのか「ハイファンタジー」なのか。

という問いにほとんど意味がないことはもう説明する必要がないだろう。

仮に、「高尚」側のハイファンタジー定義を全面的に採用して、しかも、ある作品がそう認められるハードルを可能な限り高く設定したとする。それでも、「ハイファンタジー」であることと「ラノベ」であることは基本的には両立可能であり続ける。「ラノベ」はジャンルを限定するものではないし、たとえ「ハイファンタジー」の「ハイ」が単なるジャンルを超えて作品の出来の良さを対象にした称号のようなものだとしても*6、「ライトノベル」の「ライト」は、良くも悪くも作品の質とは関係がない。

個人的な見解を言うなら、ロードス島戦記は「ハイファンタジー」(異世界ファンタジー)であり「ラノベ」である。これ以上の説明が必要とは思えないし、説明のしようがない。

面白いのは、「ロードスはハイファンタジーなのでラノベ(なんか)じゃない」と言う側と「ロードス(なんか)はハイファンタジーじゃなくてラノベ」と言う側が、結論は正反対でも、考えかたの方向性としてはさほど変わらないということだ。共に、「高尚」のハイファンタジー定義を採用し、「ラノベ」と「ハイファンタジー」を二者択一の関係にあるものとして考えている。そして、どちらも相手についてお互い「あいつらはまともな知識がないからそんな的外れな認識になるのだ」と思ってそう。





この件から何か教訓を見出すとすれば。

第一に。よく知っているつもりの対象であっても、ネットで言及する時にはなるべく1分でも10秒でもググって確認してからにした方がよい。

第二に。相手を笑う時には自分も笑われる覚悟が必要。

そして第三に。グランクレスト戦記*7アニメ化楽しみですね(教訓?)




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(窓口)
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*1:無論、この二つが別物であるとは限らない。この記事自体の結論に関わることだが。

*2:青帯成立以前から、アニメ・漫画的なイラスト(曖昧な概念だが詳しい定義は勘弁してもらいたい)を用いた角川文庫作品自体は存在した。

*3:「新伝奇」として発売された『空の境界』は同人誌として一度発表済みの作品ではあったが。

*4:もちろんこれもラノベに必須の要素というわけではない。

*5:そもそも実際に多いのか、出しやすいのかという点から疑問なこともある。

*6:

*7:未読。

(実体験に基づいた範囲での)「エゴサ作家」リスト

エゴサーチ - Wikipedia

エゴサーチ (egosearching) とは、インターネット上で、自分の本名やハンドルネーム、運営しているサイト名やブログ名で検索して自分自身の評価を確認する行為のことである[1]。略してエゴサともいう[2]。

ツイッター上で単に(自分自身とは無関係のワードで)検索をかけてRTをしているだけなのに、なぜか「このエゴサ野郎!」と誤用で罵倒されることが多い自分には馴染み深い、この「エゴサ」という言葉。多くの人が一度はやってみたことがある行為だと思うが、やはり目立つのはある程度の著名人によるエゴサだろう。

今回は、自分が実際に遭遇した事例(フォロワー外からのRT、リプライなど)から、少なくともその時点ではエゴサを行なっていた、と判断できる作家を数人紹介したいと思う。念のために言っておくが、特に批判の意図はない。

1.新城カズマ


新城カズマ - Wikipedia
90年代にPBMや小説などで展開された「蓬萊学園シリーズ」の“グランドマスター”として知られた人物。作家としてはライトノベルを中心に活動していたが、近年では(非ラノベの)SFや歴史小説なども多い。また、物語論などに関するノンフィクションの著作もある。

補足すると、『狗狼伝承』は、富士見ファンタジア文庫から刊行されていた学園チャンバラ現代和風ファンタジーシリーズ。「砌を継ぐ」というのはその作中の用語で、「時念者」と呼ばれる異能者による時間・空間移動のこと。

単なる愚痴にリプライが飛んで来た時には驚いたが、おかげで当該同人誌を入手することができたので万々歳である。ただ、自分の住所その他の情報と、きっっったない筆跡が先方に押さえられているかと思うと少々落ち着かない気持ちにはなる。


2.青柳碧人

双月高校、クイズ日和 (講談社文庫)

双月高校、クイズ日和 (講談社文庫)



青柳碧人 - Wikipedia
天才数学少女が探偵役を務める数学ミステリシリーズ『浜村渚の計算ノート』が代表作。ライト文芸、キャラノベなどと現在呼ばれている分野で多数の著作がある。

自分では絶賛のつもりだったが、著者本人が目にした場合気を悪くしてもおかしくない書き方だったため、とりあえず批判としては受け取られていないようで安心した(皮肉ではない、と思いたい)


3.小森健太朗

探偵小説の論理学

探偵小説の論理学


小森健太朗 - Wikipedia

ミステリ作家。評論活動も行なっている。自分が読んだ中では、「少女漫画の世界」(漫画業界ではなく作品世界の中)を舞台にした『ローウェル城の密室』、PC用の美少女ゲーム(非18禁)が付属する青春ミステリ『ネメシスの虐笑S』などの、特異なミステリが印象的(良くも悪くも)

上のツイートに関しては、単純に自分の勘違いだったので申し訳ないことをした。


4.芦辺拓

綺想宮殺人事件

綺想宮殺人事件


芦辺拓 - Wikipedia
ミステリ作家。一部での愛称は「シベタク」。





繰り返しになるが、作家によるこれらの行為を批判しているわけではない。自作や自分自身の評判が気になるのは作家という職業を考えれば当然のことだし、検索して見つけた発言をRTしたりリプライを送ったりすることも、規約の範囲内であるのはもちろん、特にマナー違反というような話ですらないと思っている(自分が似たような理由で怒られることが多いから擁護しているわけではない)

ただ、エゴサをする自由があるのと表裏一体で、エゴサを避ける自由も当たり前のようにある。作家の側から積極的に反応してもらえることに喜びを感じる読者もいるだろうが、好きな作家であればあるほど距離を置いておきたいと考える読者もいる。自分についての野放図な言及を牽制する効果を最優先にしているのなら別だが、目に見える形でエゴサをする者は、自分への言及数自体を抑制してしまう可能性を認識、というより覚悟しておく必要があるだろう。

かく言う自分は「覚悟」した上で、本来のエゴサも、特定単語での誤用「エゴサ」(単なるツイッター検索)も、そして引っかかったツイートのRTも、ほぼ毎日好きなだけ行なっている。言及数が減るなら減るでけっこうなことじゃないの、ぐらいの無責任な気持ち。



(ほしいものリスト)
http://www.amazon.co.jp/registry/wishlist/9S6BGQY6R7A2

「ラノベ」判定法


今日もネットの海のどこかでは「ライトノベル」の定義についての議論?が行われているようです。それは別に構わない。最後の一人が勝ち残るまで、大いに戦って戦って戦ってもらいたいぐらいです。

 ただ、ひとつ気になるのは、最近このような発言をしばしば見かけることです。

https://togetter.com/li/1102752#c3662679 

その上昔のレーベルもライトノベルレーベル認定してるから、娯楽小説全般がライトノベル認定されるに至ってしまった。

ライトノベル」の概念が拡散し過ぎてもはや用語として意味をなさないまでになっている――こういう批判とも嘆きともつかない言葉がそこかしこで見られるようになりました。これは、果たして正しい認識なのでしょうか。

 たしかに、(わたしがラノベ定義論関係の話題に口を挟む時にたいていネタ元にしている)新城カズマライトノベル「超」入門』にも、このような記述があります。

 

ライトノベル「超」入門 [ソフトバンク新書]

ライトノベル「超」入門 [ソフトバンク新書]

 

 

かくして、ライトノベル十分条件を述べよ、ジャンルも何もかも一つとして取りこぼしてはいかんぞ――と(頭にピストルを突きつけられて)迫られたら、「翻訳ものではない日本国内の小説です」ぐらいしか答えようがありません。

しかし、これはあくまで、「ライトノベル」内部のジャンル多様性*1 について述べているだけであって、「ライトノベル(概念)」の一般文芸(非ライトノベルの小説)の領域への侵食を語っているわけではありません。

どうも、この「ライトノベル内の多様性」を(ラノベ批判の決まり文句である「画一化」へのカウンターの意味も込めて)ラノベ読者側が強調した結果、伝言ゲームによりそそっかしい人々の脳内に「拡散しきって空虚な『ライトノベル』概念」のイメージが形作られたのでは?という疑いもあるのですが、確証はないのでひとまず措いておきます。

ともあれ。このような「ライトノベル」の拡大解釈、というより「拡大解釈されている」という思い込みが広まることは、特に具体的な実害があるわけではありませんが、なんとなく落ち着かないものがあります。敢えて言い切ってしまいますが、少なくとも狭義のライトノベルに限れば、具体的な作品がそこに含まれるかどうかは、ある程度は明確な線引きが実際は可能です。その基準を以下に示します。

  

(似たような試みは『ライトノベルライトノベルめった斬り!』にもありましたが、ここではより基本的・初歩的な部分の再確認を目的にしています)

 

ライトノベル☆めった斬り!

ライトノベル☆めった斬り!

 

 ライトノベル度診断表(Web版)

 

 

1.小説

ライトノベルであるための第一条件、それは小説であること、です。ここで言う「小説」とは、散文で書かれた虚構の物語、という辞書的な意味以上の含みは特にありません。

当たり前の話だと思われるでしょうが、後述する、狭義のライトノベルレーベルから出版されている本の中にも、エッセイや漫画などが含まれていることがあります。これらを排除するために、ライトノベルが「小説」であることを改めて強調しておく必要があります。

 

 

 また、小説に比較的近い形態の文章創作として、TRPGリプレイがあります。これはテーブルトークRPGのセッションの様子を文字に起こして読み物になるよう手を加えたものですが、これも「小説」とは区別しておきます。その理由は、多くのリプレイが台詞とわずかな地の文(ト書き)で構成された戯曲のような形で書かれているという形式面の問題よりも、架空の物語ではあるが一方で実際のプレイの記録としての性質も持つ点にあります。

 

 

もちろん、リプレイを元にして小説として再構成したような作品や、単に作中で登場人物達がTRPGをプレイしているだけの作品は別で、これらは単なる小説です。また、TRPGリプレイ同様に台詞の連続で物語が進行していくが内容は純粋な創作であり、戯曲などのように上演を前提としない『まおゆう魔王勇者』のような作品(いわゆるSS)もまた「小説」として扱います。

 

  

 

  

2.レーベル

特定の小説レーベル、つまり「ライトノベルレーベル」から出ている作品かどうか、ということです。

ラノベレーベルから出ていればラノベ、というのは循環論法のようですが、ライトノベルの「定義」というような抽象的かつ普遍的な話をするのならともかく、個別の作品についてラノベ判定をするだけならば、これで十分こと足ります。ここでは、「ライトノベルレーベル」の定義も特に行いません。敢えて言うなら、これも次の項目の先取りになりますが、その初期から一貫して表紙や挿絵などにアニメ・漫画・ゲーム的なイラストを使用した作品が大半を占めている文庫レーベル、ということになるでしょうか(もちろんこれだけでは限定が不十分)

現存する小説レーベルのうち、「ライトノベルレーベル」と断言できるのは以下の通りです。

 

 

要は、ラノベの杜のレーベルリストのうち、「男性向け」 の「文庫」ということです。もしかしたら漏れもあるかもしれませんが、それはラノベの杜の方に言ってもらえれば……(丸投げ)

「富士見ドラゴンブック」「星海社文庫」「ノベルゼロ」を除いたのはミスではなく意図的なものです。ドラゴンブックはTRPG関連の書籍がメインのため。残りの二つは……レーベル側が「ラノベ」扱いしてほしくなさそうな態度をしており、読者の中にもそれを真に受け、もとい受け入れている層がいるため、ということにしておきましょう。

 

ぼくらは虚空に夜を視る (星海社文庫)

ぼくらは虚空に夜を視る (星海社文庫)

 

 

 「ライトノベルレーベル」かどうか意見の分かれる、ラノベの周辺領域の小説レーベルとしては、

 

といったものがあります。これらがなぜラノベレーベルと言い切れないのか、あるいは逆に、なぜラノベレーベルではないと言い切れないのかについては説明しません。というより説明できません。そういうものなのだと思ってください(個人的には少女向けも単行本も問題なくラノベだと思っています)。

 

3.イラスト

表紙や挿絵に、漫画・アニメ・ゲーム的なイラストが使用されているかどうか。もちろん、イラストが使われている側がラノベです。

漫画・アニメ・ゲーム的なイラストと言ったって、漫画にしろアニメにしろ色んな絵柄があるだろうって?じゃあ、オタク(向け)的なイラストと言えば満足ですか?という逆ギレはともかく、たとえば天野喜孝末弥純あたりはどうなんだといった疑問も当然あるでしょうが、ここでは無視します。なんとなれば、多少の絵柄の差異は狭義のラノベ判定においてさほど大きな問題にならないからです。

 

  

機動警察パトレイバー TOKYO WAR (前編) (富士見ファンタジア文庫)
 

 

さて、項目はまだ続きますが、実際のところ、ここまでで既にこの文章の目的の八割ぐらいは達成できています。つまり、この三つだけで、狭義のライトノベルを判定する基準としてはほぼ実用に耐えうると言って良いのです。

上の項目ほど優先順位が高く、更に言うと、1は絶対の条件であり、2と3の間には大きな差があります。これらの組み合わせをバカ丁寧に書き表すならば、

 

  • 1+2+3(狭義のライトノベルレーベルから出版されているイラスト付きの小説)=間違いなく完全にラノベ(A)
  • 1+2(狭義のライトノベルレーベルから出版されているイラストのない小説)=問題なくラノベ(B)
  • 1+3(非ラノベレーベルから出版されているイラスト付き小説)=ラノベと呼ばれることもある(C)
  • 1(非ラノベレーベルから出版されているイラストのない小説)=恐らくラノベではない(D)

〜〜〜〜〜(小説の壁)〜〜〜〜〜

  • 2+3(ラノベレーベルから出版されているイラスト付きの非小説)=ラノベではない
  • 2(ラノベレーベルから出版されているイラストのない非小説)=ラノベのわけがない
  • 3(非ラノベレーベルから出版されているイラスト付きの非小説)=ラノベではあり得ない
  • 0?(非ラノベレーベルから出版されているイラストのない非小説)=何しに来たの?

 

となります。

ラノベ関連の議論で問題になるのは、当たり前のことですが基本的には小説であるA〜Dまで(ほとんどの場合はCまで)です。そして、狭義のラノベ、議論の余地なくラノベと呼ばれているのはあくまでAとBだけなのです。とりあえずAとBのみを「ラノベ」として扱っている分には、特にめんどくさい話に巻き込まれることもなく、安全なラノベライフを送ることができます。そういうラインが、一応は存在するのです。

しかし、そこから一歩でも踏み出すのなら、「ラノベ定義論」という獣の危険性は多かれ少なかれ必ずつきまといます。たとえば、表紙にイラストが使用されているとはいえ狭義のラノベレーベル作品ではない野崎まど『[映]アムリタ』(メディアワークス文庫)の書影付きで「おもしろいラノベ読んだよ〜\(^o^)/」などとうっかりツイートしようものならそれだけで、翌日には「ラノベ帝国万歳」というビラを握らされて道端で冷たくなっている可能性も否定はできないのです。用心するに越したことはありません。

 

でもラノベ関係の話題に通じていそうな人が狭義のラノベ以外の小説を何の補足もなく無造作に「ラノベ」と呼んでることもあるじゃないか、と疑問に思った方もいるかもしれません。そうですね、むしろ日常茶飯事と言ってもいいでしょう。ですが、これは、ある作品がラノベかどうかについての自分とは異なる考え方の存在を知った上で、その意見を“絶対に殺す”という覚悟を持って自ら戦場に赴いているのだと思ってください。何気なく言葉を発しているように見えますが、その裏にはそういう炎のように苛烈な意志が隠れているのです。そんな不器用な生き方しかできない悲しい人種なんですよ、彼らは……

判定が難しい例の一つとしては、以前日記にも書きましたが、たとえば米澤穂信古典部シリーズ」のような、狭義のライトノベルレーベルが初出で一般文芸のレーベルから改めて刊行し直した、あるいは逆にもともと一般文芸が初出でラノベレーベルから出し直した作品はどういう扱いになるのか、という問題があります。

 

氷菓<「古典部」シリーズ> (角川文庫)

氷菓<「古典部」シリーズ> (角川文庫)

 

 

 

個人的には、少なくともラノベレーベルで出た分に関してはラノベと断言して良いのではないか、と思うのですが、この程度の控えめな結論であっても、ラノベ宗教戦争のリスクをゼロにすることはできません。ということで、この手のややこしい経緯の作品はやはり「狭義のラノベ」からは除外しておいた方が無難です。

 

 

以下の項目はいずれもオマケみたいな、あってもなくても結論は変わらない程度のものですが、一応続けます。

 

4.オリジナル

その作品自体以前に、原案・原作となるものが存在しているかどうか、です。原作付き作品、つまりノベライズは、ライトノベルそのものとは言い難い、とされる場合もあります。ただ、原作付きでありながらも、ラノベとしての知名度の方が上になったようなケースも時にはあるのですが。

 

また、原作などとは微妙に事情が異なりますが、ネット小説が初出の書籍化作品は、ラノベレーベルから出ていたとしても従来のラノベ(「伝統ラノベ」という呼び方が提唱されたこともありました)とはやや区別されているようなところがありましたが、現在ではネット発の作品が増えたこともあって、そのような垣根はほぼ無視して良いでしょう。

 

 

 5.判型

レーベルの話と重複しますが、一般的にラノベには文庫サイズのイメージがあります。

とはいうものの、狭義のライトノベルレーベル以外から刊行されているのであれば、それが文庫だろうがノベルスだろうが単行本だろうが、「ラノベっぽさ」に関してはそれほど大きな差はないと思われます。

 

6.国産

最初から日本国内の読者向けに書かれた作品であるかどうか。

上に引用した『ライトノベル「超」入門』でも言われているように、ラノベは日本独自の文化、というのがかつての通説でした。ですが、現在では海外でも「ラノベ」と呼んで差し支えないような形式のイラスト付き小説も出ているようで(実際に読んだことはまだありません)、ラノベ判定基準の優先順位としては低くなってきていると言えます。

 

7.文章・物語内容

ラノベそれ自体は小説のジャンルではなく、内部に多数のジャンルを内包する「場」である、というのが自分の考えなわけですが、もちろん全くの自由というわけにはいきません。各ジャンルとの相性の良し悪しというものは当然あるでしょうし、それが結果として実質的な制限となっていることもあり得ます。であれば、「ラノベらしい」文章や内容というものを定義することも可能なのでは……?

が、これに関してはあまり執着しない方がいいでしょう。内容や文章といった小説としての中身のみからラノベかどうかの判定を行うことは、はっきり言って非常に危険だからです。上で「議論の余地なくラノベ」という表現を使いましたが、実際には、ライトノベルレーベルから出ていてイラストも付いていてついでにアニメ化もされているようなラノベを文章や内容を理由に「ラノベではない」と判断する、本末転倒な主張も世の中には存在しています。

これらのまとめに見られるような、論者の都合に合わせた「ライトノベル」の矮小化も、実在のほどは知りませんが「娯楽小説全般がライトノベル認定される」ようなラノベ拡大主義も、内容・文章を基準とした「ラノベ」判定の産物という点では違いがありません。その取り扱いには細心の注意を払いたいものです。

 

 

 

以上、「ラノベ」を判定する七つの基準について見てきました。分かっている人には言わずもがなの内容だったでしょうが、基本のキを確認しておきたかったのです。

ラノベレーベルから出ている小説ならばラノベとする、イラストが付いていればなお良し、というこのような形式面を重視した半ば機械的な判定法には、思考停止だという批判が加えられることがあります。ですが、「思考停止」ってそんなに悪いことなんでしょうか。外部の基準に判断を委ねることで公正さが保たれるのなら、無理に自分の頭で考える必要もないのでは。「自分の頭で考えた」結果の“事故”をいくつも見てきた身としての素直な気持ちです。

 

 

(ほしいものリスト)

http://www.amazon.co.jp/registry/wishlist/9S6BGQY6R7A2

 

*1:ここでは「超」入門同様に、ライトノベル自体はいわゆる「ジャンル」ではない、という立場を取る。