い(い)きる。

生きることは言い切ること。

“恥ずかしい文字書き”にならないための四つの方法

ここで言う「文字書き」とは、アマチュアの小説執筆者、特にWEB上で活動しているものを指す。

では「恥ずかしい文字書き」とはどういう存在か。文字書きとしての作品の中味はあまり関係がない。というより、全くの無関係とさえ言ってよい。趣味でやっていることなのだから、上手くても下手でもラノベでも純文でもショートショートでも大長編でも好きに書いたらよろしい。ただ、「恥ずかしい文字書き」が書いたことによってその恥ずかしさが作品にまで波及することは稀によくある。

「恥ずかしい文字書き」の恥ずかしさは、作品を離れたひとりの人間としての言動を唯一最大の源とする。「あ゛〜〜、オレって○○だから最近のラノベ/なろう/その他では異端なんだよな〜、ツラいわ〜(´;ω;`)」といった自虐(?)が「恥ずかしい文字書き」的発言の典型の一つである。「恥ずかしい」と言って通じにくければ、大胆に「イキリ」と言い換えてもいい。

ここまでの説明で「恥ずかしい文字書き」という概念にピンと来ない人は、この文章を読んでも得るところは無いだろうからブラウザバックしてもらってかまわない。

諸事情あって長年「恥ずかしい文字書き」の実例を大量に目にしてきた経験から、こうすれば「恥ずかしい文字書き」になることをいくらかは避けられるのではないかという方法をいくつか思いついた。それをここで紹介する。


本題に入る前に、予想される疑問にあらかじめ答えておく。

 


 

Q.「恥ずかしかったら何か悪いのか?」
A.「悪くはない。本人がそんなことは全く気にしないというのであれば、こんな文章を読む必要はない。作家として大成するかどうかともあまり関係はないと思われる(実際「恥ずかしいプロ作家」も大勢いる)。ただ、自分の見る限り、文字書きという人種は羞恥心が人一倍強い場合が多そうに見えるし、好きこのんで恥ずかしい状態に身を置きたい人間もそう沢山はいないだろうと思われるので、こういった文章の需要はあるのではないかと思った」

Q.「そもそも『小説を書く』ということ自体が世間から見れば恥ずかしいのではないか?」
A.「そうかもしれない。しかし、小説執筆行為自体の『恥ずかしさ』と、『恥ずかしい文字書き』的言動における『恥ずかしさ』は別物であるように見える。少なくともこの文章では分けて扱うことにする。もしも、『恥ずかしい文字書き』的言動は小説執筆に不可欠であり不可分なものであるという主張が存在するのであれば、同意はしないが尊重する」

Q.「お前は何様だ?自分で小説のひとつも書いたことがあるのか?」
A.「何者でもない。小説を書いたことはある。一度だけ送った新人賞では一次落ちだった。なろうのアカウントも一応持っているが今のところ短編・ショートショート数本しか書いていない」

 


 

1.ググる

たとえば。一人の文字書きが、昨今の日本語の乱れを嘆いていたとする。そしてその上で、

「まったく最近のラノベ/なろう/その他は“散文”過ぎて読めたもんじゃない!(○`ε´○)プンプン!!」

というようなツイートをしたとしよう。この時点で、この文字書きが「散文」の意味を正しく理解していないことは明らかだし、乱れているのはお前の日本語の方なのでは……?と疑われることも避けられない。

このように、文字書きが文章に一家言あるというアピールをしつつそこでの言葉の使い方自体がそもそも怪しい、というケースは多い。

これを避けるには、もちろん正しい日本語をあらかじめ完璧にマスターした上ではじめて情報発信をするようにすればいいのだが、当然のことながらそんなことはほぼ不可能だろう。現実的には、「少しでも自分の単語理解に曖昧な部分があればツイートや文章公開の前にとりあえずググる」という習慣をつけるのが手っ取り早い。ネット上の情報がどこまで信頼できるのか?という不安もあるだろうが、コトバンクあたりを優先的に参照するようにすれば少なくとも「散文過ぎて読めたもんじゃない」レベルの大暴投をすることだけはほぼ無くなるはずだ。

文字書き関連で誤用の多い語としては「散文」以外にも、「純文学」「文庫」「口語体」「ト書き」などがある。これらが文字書き界隈で実際にどのように誤用されているのかはともかく、それぞれの単語の本来の意味についてはそれこそ各自ググって確認してもらいたい。


2.小説を読む

また、たとえばの話だが。「わたし小説読み慣れてるから、ラノベ/なろう/その他で会話文が二回連続するだけで違和感あるんだよね( ´Д`)=3」というようなツイートをしている文字書きがいたとしよう。

違和感は本人の感覚の問題なので別にいい。だが、「小説読み慣れてるから」という理由の方はどうだろうか。以下は、自分が最近たまたま読んだ小説からの引用だ。

「ほう。じゃ、あの男と新婚旅行か?」
 安田は杯を口からはなしながら言った。
「そうなのよ。あきれたもんね」
「あきれることはないさ。君たちもやればいいじゃないか?」
「おあいにくさまね。それとも、ヤーさん、連れて行ってくれる?」
「おれか。おれはだめだ。そう何人も連れて行けない」

「それで、その電話は、かかってきたかね?」
「かかってきました。私が電話を聞いたのです。二十日の午後八時ごろでした。女の声で、客の菅原さんを呼んでくださいと言いました」
「女の声でな。佐山と言わずに、菅原と言ったのだな?」
「そうです。私は、お客さまが毎日、じれるくらいに電話を待っていたのを知っていたので、すぐに部屋につなぎました。そうです、ここは各部屋に電話を切りかえるよう交換台があるのです」
「それで、どんな会話があったか、わからなかったかな?」

「どうも思いだしません。われわれは切符を切る手もとばかり見ているので、何か変わったことでもなければ、お客さんの顔はあまり見ないのです。それに、ここは始発だから、改札が開くと同時に、乗客がつづいてホームにはいるのです」
「でも、あの時刻は、そう客は混んでいなかったでしょう?」
「そう。三四十人ぐらいだったでしょうか。いつもそのくらいです」
「女の人は近ごろは洋装が多く、和服は少ないと思うが、どうですか、思いだしませんか?」
「どうも、はっきりおぼえていません」
「よく、考えてください」

点と線

点と線


「何でもやります」
「何でもやりますったって、まさか鉄道の切符切もできないでしょう」
「いえできます。遊んでるよりはましですから。将来の見込のあるものなら本当に何でもやります。第一遊んでいる苦痛を逃のがれるだけでも結構です」
「そう云う御考ならまた私の方でもよく気をつけておきましょう。直ぐという訳にも行きますまいが」
「どうぞ。――まあ試しに使って見て下さい。あなたの御家の――と云っちゃ余り変ですが、あなたの私事にででもいいから、ちょっと使って見て下さい」
「そんな事でもして見る気がありますか」
「あります」
「それじゃ、ことに依ると何か願って見るかも知れません。いつでも構いませんか」
「ええなるべく早い方が結構です」

「なぜそんな所に黒子なんぞができたんでしょう」
「何も近頃になって急にできやしまいし、生れた時からあるんだ」
「だけどさ。見っともなかなくって、そんな所にあって」
「いくら見っともなくっても仕方がないよ。生れつきだから」
「早く大学へ行って取って貰うといいわ」

「衣服なりもこっちから云って上げた通りでしたか。黒の中折なかおれに、霜降しもふりの外套を着て」
「そうです」
「それじゃ大抵間違はないでしょう。四時と五時の間に小川町で降りたんですね」
「時間は少し後れたようです」
「何分ぐらい」
「何分か知りませんが、何でも五時よっぽど過ぎのようでした」
「よっぽど過ぎ。よっぽど過ならそんな人を待っていなくても好いじゃありませんか。四時から五時までの間と、わざわざ時間を切って通知して上げたくらいだから、五時を過ぎればもうあなたの義務はすんだも同然じゃないですか。なぜそのまま帰って、その通り報知しないんです」

夏目漱石 彼岸過迄



小説内での会話文の連続などは、ラノベに限らず大して珍しいものではないということの一例である(サンプルが少ないとか偏ってるとか思う人は各自で検証してほしい)

つまり「あるべき本来の小説の形」を基準にしてラノベ/なろう/その他を語っているはずが、そもそも「本来の小説」に関する認識が狭くて歪んでいるため的はずれな分析になっているのだ。こうしたことが起こる原因は単純に、(文字書き本人が思うほどには)小説をあまり幅広く読んでいないせいなのだろう。それをなんとかしたいのならば、とにかく小説を読んでみるしかあるまい(そんなに読んでいないことを深く自覚してそれに見合った発言を心がけるのでも別によいのだが)

また、それとは別に、上でも挙げた「あ゛〜〜、オレって○○だから最近のラノベ/なろう/その他では異端なんだよな〜、ツラいわ〜(´;ω;`)」のように、先例がないほど新しいにせよすっかり廃れてしまったほど古いにせよ、自作を現在では極めて特殊で例外的な存在であると見なしたがる文字書きがいる。多くは錯覚でしかないのだが、これも結局は、適切な現状把握と自作の相対化に必要なだけの読書量が足りていないということなのだろう。

ちなみに自分が見た中で最も印象的な自作紹介は「読者の皆様が誰も読んだことの無い、究極の物語」(現在は変更済み)というものだったが、ここまで突き抜けていると逆に誤解を招く心配もないので安心して眺めていられる。


3.つるまない

文字書きA「ランキング上位作品読んでみたけど、面白さがまったく理解できない……なんでこんなのが支持されてるんだろ……そしてわたしの作品は……(T_T)」
文字書きB「あんなゴミどもよりAさんの傑作の方が面白いに決まってますよ!読者の目が狂ってるのです!ヽ(`Д´)ノ」
文字書きA「ありがとうございます!m(_ _)m Bさんこそ、ランク入りしないのが異常ですよ!今の世の中何もかも間違ってますね!」
文字書きB「まあ、ジャンクフードだけ食べてきた三流の客の舌には三ツ星フレンチの味が分からないってことなんでしょうかね(^_^;)」


わたしがツイッターで見てきた範囲では、文字書き同士の間ではこういう会話は日常茶飯事のようだ。言い換えると、文字書き間のリプライでは「恥ずかしい」発言が現れる確率が非常に高い。

これは文字書きに限った話ではないが、同じような性質の人間が複数集まると、その性質をお互いに肯定し合うことでどんどん先鋭化していく傾向がある。ああいう会話が量産される背景にはそのようなメカニズムがあるらしい。これがいわゆる、友達を作ると人間強度が下がるということだろうか。

解決策としては、文字書き同士で深い関係を結ばないようにすればそれでよい。だが、人間関係はそう単純に割り切れるものでもないだろう。内輪での褒め合いが執筆のモチベーションに繋がるという場合もあろうし、メリットとデメリット、リスクとベネフィットの兼ね合いが難しいところだ。

4.SNSの制限

結局のところ、文字書きが文字書きの肩書きを引きずったまま作品外で何かを言う、ということ自体に問題の種があるのかもしれない。

であれば、SNSの使用に一定の制限をかけてみるのはどうだろう。簡単に言うと、投稿サイト等での文字書きとしてのアカウントと、ツイッターなどSNSアカウントの紐付けを、完全に断ち切るのだ。SNSでは小説を書いていることなど一切匂わせず、投稿サイトではSNSアカウントの存在にひとことも触れない。これによって、少なくとも「恥ずかしい“文字書き”」になる可能性だけはぐっと抑えることができる(エッセイや活動報告などは書かない前提)

究極的にはいっそ、SNSの使用を全面的に停止するという選択肢を視野に入れてもいいかもしれない。あんなものは時間ばかり取られるだけで百害あって一利なしだと、自分でも時々思うことがあるぐらいだ。現代人にとってはもはやインフラ?馬鹿馬鹿しい、インフラよりもイソフラボンの方が大事に決まってるだろう。

 


 

以上。

いかがだっただろうか。当たり前のことしか言っていない、と感じる部分もあるかと思われる。

しかしそれは逆に考えると、「恥ずかしい文字書き」は、当たり前のことさえできていないから「恥ずかしい」のだ、と言うこともできるのではないだろうか。平凡を積み上げて非凡に至る――そのような文字書きの道のあり方について少しでも考えていただければ幸いだ。

まあ、たった今でっちあげた理屈だけど。