い(い)きる。

生きることは言い切ること。

ジャガトマ警察の恐るべき実態

 とある異世界のとある農村――

 それぞれ鋤や鍬などを手にした農民の男たちが、畑の前に大勢あつまっている。彼らに畑仕事をする様子はなく、その顔にはいずれも強い怒りと恐怖が浮かんでいた。

 枯れかけた黄色い葉が並ぶ畑をちらちら見ながら、農民たちは囁くような声で言葉を交わし合った。

「やっと収穫直前までこぎ着けたってのに……」
「守ってみせる、今度こそ……」
「き、来たぞ! 奴だ!」

 裏返った声で、一人の農民が叫ぶ。その指差す先には、地平線の彼方から夕日を背にして悠然と歩み寄るひとつの影があった。男だ。

 男は、中肉中背の平凡な身体を、異世界に似つかわしくない濃紺の制服と制帽に包んでいる。ある程度の距離まで近づくと、その顔には張り付いたような笑みが浮かんでいることが分かった。

 農民たちの立つ場所まで、畑まであと20歩ほどというところで、男は足を止めた。帽子のつばをつかみ、軽く一礼する。

異世界のみなさん、こんにちは」

 柔らかい、しかし決して相手と同じ目線に立っていないことが明らかな声だった。強大な組織に属している人間だけが持つ、圧倒的な自信が隠しようもなく漏れ出ていてる。そして男は、自分が何者であるかを通称で短く告げた。

「どうも、『ジャガトマ警察』の者です」
「……!」

 言われるまでもなく既に知っていたはずの、その禍々しい名乗り。それを合図にして、農民たちは弾かれたように動き始めた。

「……いくぞ!」
「おう!」

 複数の農民が、男――ジャガトマ警察に向かって一斉にピッチフォークを投擲した。農民にしておくのが惜しいほどの正確さで、いずれのフォークも男めがけて勢いよく飛んでいく。命中すれば、重傷は免れないだろう。

 だが、ジャガトマ警察は一歩も引き下がることなく、上体のわずかな動きだけで全てのフォークをかわしきった。そして体勢を戻した時には、いつの間に取り出したのか、彼の右手には銃のようなものが収まっていた。

 ポワワワ!

 間の抜けた音と共に、ジャガトマ警察の構えた銃のようなものの先端から、リング状の光が放たれる。

「は、畑を守れ!」

 しかし、農民たちが自らの身体で作った壁を、リング光線はやすやすと素通りしていく。

「あああっ!」

 悲痛な声を上げて振り返った農民たちが目にしたのは、光輪を受けて粉々になった黄色い葉――ジャガイモの葉だった。何人かが駆け寄り光線を浴びた部分の畑を掘り起こしたが、その手の中でイモは葉同様に砕け散り、瞬きをする間に跡形もなく消え去っていた。

 人体を含む他のあらゆる物質には干渉せず、ただジャガイモとトマトだけを確実に消滅させる。これが、現代ポマトロニクス(ジャガトマ電子工学)の結晶であり、ジャガトマ警察の唯一にして最強の装備、「ポマトスマッシャー」の圧倒的な威力なのだ。

「ご迷惑をおかけしております。当地のような、中世ヨーロッパ類似異世界での『不自然』なジャガイモ及びトマト栽培は、異世界渡航技術確立以前の転生者による文化汚染の可能性があるため、異世界文化保全法第25条第3項の規定により速やかな過去の清算を――」

 精魂込めて栽培した作物の無残な最期に慟哭する農民たちを尻目に、ジャガトマ警察の男は自分の属する組織と世界の、一方的で空虚な理念をよどみなく語っていた。

「クソっ! なにが『よーろっぱ』だ!」
「この国がたまたま偶然そんなものに似てたからなんだってんだよ!」
「俺たちは、親父も爺さんもその爺さんも、ずっとこの土地でジャガイモを作り続けてきたんだぞ!」
「息子に約束したんだ。今年はうまい茹でイモを食わせてやるって。それを、お前ら他世界人(よそもの)の勝手な理屈で……うおおおお!」

 農具を手にした農民たちは、ジャガイモへの熱い思いを口々に叫びながら、ジャガトマ警察に向かって駆け出していった。これまで同様に自分たちが敗れ去ることを知りながら、それでも。



 押し付けられた善意に抗う、異世界ジャガトマ農家たちの戦いは続く……


OXO ポテトマッシャー

OXO ポテトマッシャー

  • メディア: ホーム&キッチン

異世界サンドイッチ問題とはあんまり関係ない話

先日、以下のツイートをきっかけにして、ツイッター上でにわかに「異世界サンドイッチ論争(?)」が巻き起こりました。

議論の詳しい内容はまとめの方を見てもらうとして、本日、発端となった「なろうファンDB管理人@スコッパー」氏が、こんなエッセイを小説家になろうに投稿したようです。

突然、【異世界サンドイッチ許せねぇ教】の開祖になってしまった件

私はこれを見たとき「作者さん大変だなぁ」という感想を抱いた。ただその一方で、ファンタジーを長年読んできた経験から、ツッコミ自体は野暮だと思いつつ読者の人たちの心情もある程度理解はできたこと、自分はうまく折り合えてこられたことを表明すべく、以下のようなコメントをリツイートした。

(発端ツイートの引用あり)

上記ツイートを行った当初、それなりに共感を得て2桁程度のリアクションはあるかもと予想していた。案の定最初は20程度のリツート数で「思ったより反響があったな」と感じたのであるが、1時間ほど放置している間に、その数は10倍に増え「Twitterのバグかな?」と疑い、さらに時間が経過すると今まで経験したことのない数字になり、これは「バズってやつか」とようやく理解した。

バズったことに対して、私は「皆さん、結構共感してくださったんだなぁ」と思っていた。しかし現実はそんな楽観を吹き飛ばすかのように厳しかった。すでに書いた通り、私のツイートの主旨は「作者さん大変だ。ただ自分も気になることあるけど、自身で折り合いつけてるよ」である。

ところがリプや引用リツートでは、「サンドイッチごときで文句言うのはおかしい」だの「そんなこと言い出すなら、まず日本語であることを気にしろよwww」だの「サンドイッチがダメならパンもダメでは?」だの、たった140字のツイートの主旨すら理解してもらえていないことを示す反応が結構多かった。

「読者に馴染みの単語を選んで表現しているだけ」と私は理解を示しているのに、なぜ明後日の方向を向いた反論が返ってくるのか。

「なろうファンDB管理人@スコッパー」氏(長過ぎるので以後はなろうの登録名である「新大宮」氏で)は、作家側に寄り添った内容のツイートをしただけのはずなのに多数の反発を受けたことがかなりご不満のようです。これがもし事実なら、とても理不尽なことですね。

しかし、新大宮氏のこの認識は、果たしてどこまで正確なのでしょうか。



改めて、発端となったツイートの内容を確認してみましょう。

自分は異世界に「サンドイッチ」が登場すると毎回そこで引っかかる。「落ち着け、これはラノベだ。読者に馴染みの単語を選んで表現しているだけだ」て自分に言い聞かせてから、読書を再開する。

自分は異世界ファンタジーの作中に「サンドイッチ」が登場するたびに「「落ち着け、これはラノベだ。読者に馴染みの単語を選んで表現しているだけだ」て自分に言い聞かせ」る必要がある。これは、一般的な日本語の感覚では、異世界ファンタジーにおける『サンドイッチ』はラノベ以外では本来許されないもの」という価値観の表明になるかと思われます。

ここでそんなつもりは一切ないお前の深読みだと言い切られれば水掛け論になってしまうわけですが、幸か不幸か、なろうエッセイの方にもこんな記述があります。

ただ私の場合は宗教やゲーム由来の言葉の代わりにサンドイッチで引っかかりを覚えた経験が何度かあり、その上で(校閲とは無縁の)個人が自由に多様な作品を発表する『小説家になろう』という場に投稿された作品であることを思い返して折り合いをつけている、というように具体的なエピソードも加えた。

「(校閲とは無縁の)個人が自由に多様な作品を発表する『小説家になろう』という場に投稿された作品であることを思い返して折り合いをつけている」

つまり、校閲を通した場合、異世界サンドイッチは修正の対象になる部分であろう、ということです。ツイートよりもはっきりと「ミス」に近いニュアンスになっていますね。



新大宮氏の言うように元ツイートへの反応には、「サンドイッチごときで文句言うのはおかしい」といった、異世界サンドイッチが作品の粗であることに同意しつつ、それをラノベ・なろうだからと大目に見る、「寛容」な声が多かったのは事実です。彼らは実際には新大宮氏とほぼ同じはずの意見をオウム返しにしてるだけなので、「明後日の方向を向いた反論」と言ってもいいでしょう。

しかし一方で、異世界サンドイッチを(ラノベ・なろう特有の)異世界描写における傷とすること自体への反発も多数ありました。こちらは、元ツイートの内容を正しく理解した上での反応です。

わたしも、このリプライに同意します。なので、

ちなみに余談であるが、「これはなろうだ」と書くと、『小説家になろう』に対する世間的なイメージからネガティブに取られるリスクを鑑み、ラノベだと言う言葉に置き換えるという小細工もしている。

こういう「小細工」は焼け石に水というか火に油というか……せめて「ラノベ」ではなく、「小説」もしくは「フィクション」一般としていれば少しは反発も減っていたんじゃないでしょうか。なろうじゃなくラノベならネガティブに解釈されないだろうという予想はどこから来たんだ。ラノベの社会的な地位を過大評価したのか。

座頭市 [Blu-ray]

座頭市 [Blu-ray]

  • 発売日: 2017/09/27
  • メディア: Blu-ray

批評が許されない空気があると思っているラノベレビュアーに言いたいこと。

うっひょー

うっひょー

  • 発売日: 2016/03/09
  • メディア: MP3 ダウンロード

もう一点、合わせて作家の皆様に言いたいことは「読者に作品をつまらないと評価する権利を与えてほしい」ということです。

つまらないという感想を自分の胸だけに留めておく義務が読者にはあるのでしょうか。

SNSに、通販サイトに、アンケートハガキで、同じ消費者に、または作者や出版社に感想を伝える、それのどこが悪いのでしょうか。

そう私は思ってはいるのですが、今ではそういった批判、批評を許さない空気になっています。

とにかく今は批評を許さない空気になっている。それはとても恐ろしいことだと私は思っています。

このようなレビュー潰しの風潮が強まり、消費者間で意見交換できる場を奪うことがラノベ業界にとってプラスなのでしょうか。私はマイナスだと思っています。

このnoteを読んで思い出した、ツイッターでのやり取りと独り言を貼っておきます。





(元ツイは消えたようですが、クソラノベレビュー削除の件に関連して、ラノベ界隈には批判を許さず否定的なことを言うとすぐ村八分にされる空気がある、といった(幽焼け氏とは別の人物による)発言がありました)



付け加えることは大してありませんが、二点だけ。



一つ目、「クソラノベレビュー」動画削除の件について。どれだけ酷評であったとしても、視聴者たちが言うように著作権に関わりそうな部分が書影ぐらいしかなかったのであれば、その動画を削除させたのは、たとえ手続きとしては正当であっても悪手だったとわたしも思います。申し立てを行った権利者が、出版社なのか作者なのかは分かりませんが。

こういう強制力を伴った形で読者の批評活動*1を封じるような出来事がもしも頻繁に起こっているのであれば(条件表現)、間違いなく「レビュー潰しの風潮」が実在すると言ってもよいでしょう。少なくともわたしの知る限り、ブログ等の文章による酷評レビューが権利者の申請により削除されたという話は、今のところほぼ無いようですが。

(ちなみにわたしは最近、とある非書籍化なろう小説をブログで取り上げたところ、作者氏から「誹謗中傷」だから削除しろと迫られてしまいました。怖かったのでおとなしく従いましたが、これも最終的にはわたし自身の判断によるものです。)



二つ目。元noteで、執筆者のライリー氏はこう仰っています。

今まで私はラノベを評価して、時には辛辣な感想を述べたこともありました。それを棚に上げて「5000字近く書き上げたレビューなのに、ちゃんと読んでいないと言われて傷ついた」と言うつもりはありません。レビュアーがレビューのレビューを拒否することは許されないと思います。

ネットでの言論が双方向であることを認め、自分自身が批評されることもちゃんと受け入れる、という意志の表明です。これ自体は立派な態度と言えます。

ただ、批評のリスクを本気で背負う覚悟があるのであれば、この記事はラノベレビュー活動をしているというブログでそのまま書いた方が良かったんじゃないでしょうか。新規に取得したと思しき、はっきり言えば捨てアカに見えるnoteではなく。

(本人はブログ名を明かしていない理由を「宣伝する気はない」からだとしていますが、それは正直やや苦しい)

せめて消費者間では「これはイマイチだった」「これは人を選ぶ」と様々な感想を言わせてほしい、購入する以外の方法で市場に介入できる方法を与えてほしいのです。

「つまらない作品」か「面白い作品」をハッキリさせるためにも読者のレビューは受け止めて頂きたいのです。

私はつまらない作品を掴まされた失望を無駄にしないために批評をネットで公開しているのに「アンチに叩かれて心が折れそう」「モチベが下がる」などとクリエイター達に言われるのはこちらの方が心が折れそうです。

このようにライリー氏自身は業界全体にとって有益なものと位置づけているらしいレビュー活動について、実態と照らし合わせた上で評価したい人も多いでしょうし。

もし本当にラノベに健全な批評の文化を根付かせたいといったようなことを考えているのであれば、こういう書き捨ての言いっぱなしみたいなやり方はかえって良くないんじゃないかな、と思います。

表皮を使用した竹マット45x180 MR2816

表皮を使用した竹マット45x180 MR2816

  • メディア: ホーム&キッチン

*1:このエントリでの「批評」は元noteでの用法を踏襲し、「レビュー」も含む広い意味で使っています。

(完全版)「ラノベっぽさ」に対する恐るべき鈍感さ 〜とある〝本格ファンタジー〟なろう小説を例に〜

(08/02追記)


このように、「最後の眠り人は、魔王の城にて ~ダークスレイヤーの帰還~」の作者である堅洲(@kadas_blue )氏からの要請により一部削除して公開していましたが、堅洲氏が自由なレビュー活動の抑圧に批判的な立場であることが判明したため、以前の形に戻させてもらいます。


「本格ファンタジー」なろう小説との遭遇

わたしは毎日ツイッターで「ラノベ 小説」で検索をかけてる者なんですが(なぜそんな不毛な行為をしてるのかの説明は省略)、ここしばらく、とあるなろう作家の熱いツイートが頻繁に引っかかるのに気がつきました。体感的には、ほぼ毎日と言っていいぐらいのペースです。

当該なろう作家氏が日々強く主張しているのは、だいたい次のような内容です。

「自分の書いている作品は、ラノベ・なろう系ではなく、本格的なダーク・ハイファンタジー

「現在の小説家になろうは長文タイトルの異世界転生チート奴隷ハーレムが席巻していて、本格ファンタジーの居場所がない」

「出版業界も同様で、日本ではラノベ以外のファンタジー小説はほとんど存在しない」

小説家になろうは『ラノベ作家になろう』を切り離すべき」

「長文タイトルで読むやつはバカ」

ふむふむなるほど〜。

わたしも、初めて読んだ高河ゆん作品がGファンタジーコミックスの『超獣伝説ゲシュタルト』だったほどの大のファンタジー好き。

*1

「本格ファンタジー」と聞いては黙っていられません。さっそくそのなろう作家氏が書いているという、「テンプレ・ゲーム設定一切なしのちょっと大人向けダークファンタジー」を読んでみることにしました。


エルフ・「よりどりみどりですなぁ~!」・オブシダンソード

で、軽く流し読みしてみたところ。

あの……「エルフ」出てきたんですけど……?一般的なイメージ大体そのまんまの、長命とがり耳種族として。ついでに、ダークエルフもしっかりいますね。

ファンタジーにエルフが出てきて何か悪いのかって?

たしかに、「エルフが出てくるような剣と魔法のファンタジー」は、(異世界)ファンタジーの中で既にひとつのジャンルとして確立されてますよ。ラノベ含む小説でも漫画でもゲームでも、エルフが出てくる作品は無数に存在します。ファンタジーにエルフが出てくること、それ自体には何の問題もありません。

でもそれって、「本格ファンタジー」なんですか?

詳しくはないので大雑把な話になりますが、特に和製ファンタジーにおける現在の「エルフ」というのは、神話や民間伝承に登場するエルフを元にしてトールキンが創造した種族を、D&DだのWizardryだの経由でアレンジを加えつつ延々と流用している設定なわけですよね。いわば、n次創作的な存在と言っていい。

ダンジョンズ&ドラゴンズ プレイヤーズ・ハンドブック第5版

ダンジョンズ&ドラゴンズ プレイヤーズ・ハンドブック第5版

  • 発売日: 2017/12/18
  • メディア: おもちゃ&ホビー
ウィザードリィ・コレクション

ウィザードリィ・コレクション

  • 発売日: 2001/02/22
  • メディア: CD-ROM

自分の感覚だと、(異世界)ファンタジーの本格度というのは、舞台となる世界をどれだけ自力で一から構築できているか、が一つの大きな基準です。そういう視点で見た場合、仮に参照先が指輪物語などの古典であっても、先行作品の設定を踏襲することは、ファンタジー本格度にとってマイナスにこそなれプラスになるとは思えません。

大元の大元である神話・伝説から改めて設定を起こし直して新たなエルフ像を提示するのでもない限り、そこに些末なオリジナル設定をどれだけ追加したところで、根本が「いわゆる長命長耳エルフ」でしかないのなら、それは結局のところ「テンプレ設定」の範疇でしょう。ファンタジーとして非ラノベ的な「本格」を目指すならせめて、エルフじゃなくてエルファント!鼻がデカくてブサイク!ぐらいのオリジナル種族に設定してほしいところですね(それで面白くなるかは別問題)

なお、この作品にはエルフに限らず、

「ドラゴン」
「吸血鬼の『真祖』」
「魔王」
夢魔リリム
サキュバス
「オーク」

といった、「いわゆる剣と魔法のファンタジー」でお馴染みの存在が次々に登場します。言うまでもなく、どれもこれも一般的なイメージほぼそのまんまで。やっぱテンプレ異世界ですね。


それから、セリフが……

「うーん……」
「えっ!?」
「おお~」
「ふんふん」
「うおっと!」
「だーいじょうぶですよ?」
「ふふっ、おもしろーい!」
「やぶさかではないですよ~」
「なるほどー」
「わかりやすい子なんですよ~」
「ん~……!」
「じゃーん!」
「冗談よ~」
「あったかーい」
「ええっ!?」
「へぇ~!」
「よりどりみどりですなぁ~!」
「いいですよ~?」
「ん~……ん!?」

といった感じの、非常に親しみやすい、ゆる〜くて軽〜い書き方になっています。

というかこれ、この前わたしがブログで取り上げた「ラノベ台詞」の好例じゃないでしょうか。


セリフでは、漫画的なデフォルメを積極的に行いましょう。

たとえば、主人公が何かに驚いた時の反応を考えてみます。

「うわっ」

「普通の小説」ではそもそもセリフ化されず「思わず声を上げた」など地の文で処理されることが多い部分でしょうから、これだけでもかなりラノベ的な表現です。しかし、もう少しはっきりとラノベに寄せると、こうなります。

「うっ、うわァああ〜〜〜〜ッ!?」

ひらがなとカタカナの混在。

長音符としての波ダッシュ(〜)の(4連続)使用。

感嘆符疑問符(!?)での驚きの強調。

もちろんこれが全てではありませんが、「ラノベ台詞」に用いられる手法の一例です。

かなり当てはまってるように見えますね。

さすがに全てのセリフがこの調子で砕けてるわけではなく、特に魔王など立場のあるキャラはそれなりに改まった口調で話すのですが、そっちはそっちで半端に硬い言い回しがかえってぎこちなく感じられるし……

地の文にしても、セリフの違和感を補うほどの洗練や重厚さは特になく、全体的に「大人向け」の小説としてはちょっとどうなのかな?と首をかしげるような文章でした。


それからそれから。このなろう小説、重要なアイテムとして「オブシダンソード」が出てくるんですよ、「オブシダンソード」。

は?「黒曜石(obsidian)」の「剣(sword)」だから「オブシダンソード」って呼んでるだけなんだが?なんか文句ある?って意識なのかもしれませんね。正論ではあります。

でもですよ。「黒曜石の剣」ではなくわざわざ英語(カタカナ)表記で「オブシダンソード」と書かれていれば、現代日本では一般的に、ロマサガにおけるディステニィストーンの一つ(が埋め込まれた武器)であるところの「オブシダンソード」を自然と連想するものですよね?(最近だとグラブルかもしれませんがどっちにしろゲーム)

ロマンシング サ・ガ

ロマンシング サ・ガ

  • 発売日: 1992/01/28
  • メディア: Video Game

作者が実際にどういう意図で「オブシダンソード」という名称を持ち出したのかは分かりませんが、わたしはこれを非常に「ゲームっぽい」表現だと感じました。もしかして、わたしが読んだことがない本格ファンタジー小説の世界では、「オブシダンソード」が「ロングソード」ぐらいの一般名詞として定着してるんでしょうか。

また、テンプレ設定の話とも関連しますが、「東方の国から来た刀を使う『サムライ』」も、RPGやそれに影響を受けたファンタジー作品(ラノベ含む)ではもはや定番の存在ですけど、「本格ファンタジー」として見るとどうなんでしょうね。まあ、銀河帝国で超戦士〈小姓〉が活躍するSFもあるぐらいだし、別にいいのかな。

いや、〈小姓〉の独創性とテンプレファンタジーサムライはやはり根本的に違うか……

「本格ファンタジー」氏が言う「ゲーム的な描写一切なし」というのは、多くのなろう小説のようにレベルやスキルその他のゲームシステム的な要素が作中世界に直接登場したりはしない、程度の意味なんでしょう。しかし、そう宣言されて読んでみた作品の中身が、「オブシダンソード」に「サムライ」で、物語の進行もRPGのイベントのような手続き感満載だったりした場合、かえって「ゲーム的ファンタジー」の印象が強調されるのは避けがたいですね。


「本格ファンタジー」……??

結論として、件のなろう小説を非ラノベ・非なろう的な大人向けの「本格ファンタジー」と称するのは、かなり無理があります

そういう、いかにも和製ライトファンタジー的な作品を書くこと自体はぜんぜん悪くないです。小説として面白いかどうかも別問題でしょう(自分は惹かれるものは特にありませんでしたが)

ただ、もしもこれを本気で「ラノベ」ではない「小説」の「本格ファンタジー」だと信じ込み、そのせいでなろうでは適切な評価が受けられないと頑なに主張するのであれば。はっきり言って、ラノベやなろう以前に小説全般に関する感性自体がどうしようもなく鈍すぎます。どの角度から見ても、一般の基準を適用した方がはるかに厳しい評価になる作品だと思うのですが(ラノベ・なろう基準で測った方がまだマシ)


ついでに、「本格ファンタジー」氏の周囲の文字書き仲間の方々について。

小説投稿サイトのシステム上、ブクマやポイントを融通しあったり宣伝の効率を上げたりするために、文字書き同士で繋がることに大きなメリットがあるのは理解しています。

ですが、あくまで友達としての付き合い・お義理で言ってあげてるのだとしても、「本格ファンタジー」氏の主張に「わかる〜」「だよね〜」と無批判に賛同しているあなた方の姿は、無関係な他人の目からは全員まとめてとんでもねえフシアナ文字書き集団に見えてますからね?

「アレを『本格ファンタジー』と認めてしまう人間が書いてる小説か……(゚A゚;)ゴクリ」という目で自作が見られてしまう。想像するだに恐ろしいそのリスクだけはしっかり御覚悟した上で、仲良し文芸サークルごっこに励んでください。


ラノベっぽさ」に鈍感な原因

今回の「本格ファンタジー」氏は非常に極端な例ですが、自分の作風を実態よりも過剰に「ラノベっぽくない」と捉えている小説作者じたいは全く珍しくありません。これは文字書き=アマチュアだけでなく、プロ作家にも言えることです。

「自分の作品は主人公が努力する/人が死ぬ/設定が細かい/戦闘シーンが熱い/地の文が多い/ハーレムじゃない/転生じゃない/チートがない/からラノベではない」と、傍目からはこじつけとしか思えない理由で自作を軽率に非ラノベ認定してしまう小説執筆者たち。なぜこのような勘違いが発生してしまうのでしょうか?

「そんなもんラノベしか読んでないからに決まってるだろ!」

と、考えてしまうのが素人の浅はかさというものです。

現に、「本格ファンタジー」氏の過去ツイートを見ると、「エターナル・チャンピオン」シリーズなどの海外ファンタジー小説の愛読者であることが窺えます(わたしは読んだことない)

メルニボネの皇子

メルニボネの皇子

では、何が原因なのか?

わたしはむしろ、ラノベをちゃんと読んでいないからこそラノベっぽくなるのだ、という逆説的な立場を取りたいです(逆説っぽいことを言うと頭良さそうに見えるので)

純粋に小説としての中身で比較したとき、「ライトノベル」と「一般文芸(いわゆる「普通の小説」)」の間には、明確で絶対的な境界線はありません。分かりやすい実例としては、過去にラノベレーベルから出版された作品が一般文芸レーベルから新装版として出直したり、その逆に一般作品がイラスト付きでラノベレーベルに、といったケースがありますね。

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川文庫)

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川文庫)

  • 作者:谷川 流
  • 発売日: 2019/01/24
  • メディア: 文庫

それでも、なんとなくラノベっぽい/一般文芸っぽいと多くの人が感じるような内容・書き方は、大きな傾向としては存在します。人は読書経験を積むことで、そのモヤモヤとした曖昧な領域を手探りで進みながら、個々の作品について「これはまあほぼほぼラノベ」「これは一般文芸寄りだけどラノベでも出せないことはないな」といったファジィな判断が徐々にできるようになっていくのです。

この嗅覚は、一般文芸だけ読んでいても、そしてもちろんラノベだけでも習得できるものではなく、両方についてある程度の読書量が必要となります。最初からラノベと一般文芸の境界を自明だと考えているような人ほど、こういった「訓練」がおろそかになりがちな印象です。

(まあでも、ちょっと要領のいい人なら、ラノベと非ラノベをそれぞれ2、3冊も読めば、「本格ファンタジー」氏よりはマシなバランス感覚が得られそうではあるけど……)


また、ラノベというジャンル自体の特殊性もこの問題に関わってきます。

ラノベは、「アニメや漫画やゲームを小説にしたようなもの」と言われることがあります。これはある程度は正しい捉え方で、ラノベの特徴と言われるものの多くは、アニメ・漫画・ゲームなど他のオタク分野の感覚を小説という形に変換し、貪欲に取り込んできた結果です。

「美少女ハーレム」にしろ「学園異能」にしろ「謎部活」にしろ「異世界転生」にしろ、隣接する他分野との関わりがなければラノベ内に生まれなかった流行でしょう。そのためラノベには、ジャンル内で発生した独自の要素と呼べるものが実のところそんなにありません。

逆に言えば、たとえラノベそのものは一冊も読んだことがなくても、現代日本で多少なりともオタクとしてアニメ・漫画・ゲーム等に触れていれば、ラノベ的」なものは日常的に摂取し影響を受け続けているとも言えるわけです。

これは、それと気付かずラノベの原液をグビグビ直飲みしてるような状態なので、そういう人がロクな自己分析もなしに小説を書き始めれば、「ラノベっぽさ」が無自覚に暴発する危険性はかなり高くなるでしょうね。ましてやジャンルが異世界ファンタジーときては。


あとは一般論として、自分自身に関することは冷静に判断できない、というのも大きいと思われます。

もしも確実に非ラノベと言えるような小説を書きたければ、そもそも自分の感覚を決して信用せず、主人公は70代の男性、題材は年金制度の崩壊、タイトルは内容を簡潔にまとめてるんだか雰囲気だけなんだか微妙な漢字二文字(「残尿」とか)とするぐらいの、「ラノベ」から精いっぱい遠ざかる努力をしておくべきなのかもしれません。若干、本末転倒な気もしますが。


お願い

いかがでしたか。

自分の作風を非ラノベ的であると無条件に認識している文字書きの方々は、それがどういう根拠に基づいてるのか(あるいは基づいていないのか)、これを機会に改めて考えてもらえると助かります。

そうしてくれれば、わたしのような野次馬が文字書きツイートを目にして、キェエエエエエエ!キェッ!キェッ!キッェエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエェェッッッッ!!!!と奇声を上げる回数も減るでしょうし。

何とぞよろしくお願いしますm(_ _)m


(06/08追記)

(追記あり)(一部削除)「ラノベっぽさ」に対する恐るべき鈍感さ  - い(い)きる。

どの作品の話してるかくらい書いてよ。作者への配慮なんだろうとは思うけども

2020/06/07 23:58

最後の眠り人は、魔王の城にて ~ダークスレイヤーの帰還~

・大前提として、スキル、チート、異世界転生、ゲーム的な描写一切なし。

・ぱっと見「・・・ハーレム?」と思うだろうけど、実は孤独な旅をしたいがために、ヒロインたちの厄介ごとを片付けようとして、かえって信頼されて身動きが取れなくなっていく主人公が軸のひとつ。

・そしてなぜか欲がないため(伏線です)、安心して見ていられる主人公とヒロインの関係。

・剣も魔法も銃もある!とてもリアルな本格的異世界での冒険。戦闘もスタイリッシュだよ。

・おもに『眠り女』と呼ばれる、個性的で魅力的なヒロインたち。推しを見つけてみてね!

・海外ドラマやオープンワールドゲームに負けないオリジナルの広大な世界。

・ゲーム的な用語もありふれた設定も無し!それでいて神話レベルの物語がしばしば展開するよ!

・ダークファンタジーなので、激しい戦闘やえぐいシーンもあるよ・・・。

・でも基本的に「ハイでダークでカッコイイ!」ファンタジィだよ。

※実は謎も多いので、伏線を見逃さないでね!

長文タイトルがなぜ嫌われがちなのか?そして、長文タイトルが続くとどのような不利益を被るかを、長文タイトルで分かりやすく説明するよ。

やあみんな、30年近くレーベルが存在していない「一次創作としての本格ファンタジー」をこの時代に書き始めたちょっと熱い人だよ。

4.読者が『自分はそんなに馬鹿じゃない』とその作品を避けるケースが出てくる。


 比較的多くの小説を読んできた読者は『タイトル回収』や『タイトルの意味・仕掛け』を楽しみたい人も多く、この要素を捨ててるタイプの長文タイトルは『読む価値無し』として選択肢にも出てこなくなるケースが出てくる。

しかし、目が肥えた読者こそあらゆる作品に必要なファンなので、これはとても残念な事だ。

『小説を楽しむために投資を惜しまない良質な読者層』からは、『我々はそんなに馬鹿じゃないぜ?もっと良質のものを見せろよ!』って思われる事もあるだろう。

別に長文タイトルを否定はしない。ただ、タイトルの妙味という武器を捨てて、その作品を何年世で輝かせたいのか?は、創作者たるもの一度はじっくり考えてみてもいいのではないか?と思う。

*1:一応言っておくと、作中に「レベル」の概念とかが存在するタイプのファンタジーまんがです。

「増加する小説の「マンガ表紙」」問題から見る、とある作家の特異性

「マンガ表紙」批判と、そこから連想した作家

直木賞作家・黒川博行氏による以下の文章が、ネットで議論を呼んでいる。


そうして昨日、よめはんと書店に行って文芸書の平台を眺めたとき、あらためて気づいた。「増えてる。マンガが増えてる」──。単行本の表紙の半分がマンガなのだ。

マンガとかアニメというのは(一部に例外はあるが、)基本にデッサンがなく、いわば様式化と定型化の世界だから、人体のプロポーションはむちゃくちゃだし、顔は大きな眼と小さい鼻、尖(とが)った細いあごで描かれている。

なので、編集者が単行本の表紙にイラストレーターを起用したとき、そのイラストレーターがマンガやアニメ出身だと、どうあがいても顔や手足がマンガになってしまう(人物デッサンは、あらゆるデッサンのなかでもっともむずかしい)。

マンガがなぜいけないのか──。類型には画家のオリジナリティーとアートが感じられないからだろう。学園もののライトノベルなどにマンガはなんの違和感もないし、むしろそのほうがいいかもしれないが、歴史小説や時代小説にマンガふうイラストというのはいかがなものか。

いかがなものなんでしょうね。

こうした、一般向け小説に「マンガふうイラスト」の表紙や挿絵を付けることに対する反発の声は以前から根強く存在しており、さほど珍しいものでもない。


Wikipediaによると、黒川博行氏は京都市立芸術大学美術学部彫刻科出身の元美術教師で、配偶者(よめはん)は日本画家なのだそうだ。

黒川博行 - Wikipedia

そういった美術と関わりの深い経歴・家庭環境の方だけに、デッサンの狂ったオリジナリティーも芸術性も皆無な「マンガ表紙」の氾濫には、人一倍危機感を覚えてしまうのかもしれない。同じく作家の津原泰水氏をはじめ、賛同者も大勢いるようだ。



それはさておき、(一般向け)小説の「マンガ表紙」に関する議論を眺めていて、直接の関係は全くないが、自分はとある作家のことを思い出した。

昨年アニメ化したライトノベルブギーポップ」シリーズで知られる、上遠野浩平だ(以後敬称略)

上遠野はブギーポップをはじめ主にライトノベルの書き手として認識されているが、その作家歴の早い段階で、一般向け寄りのレーベルでの活動も始めている。これ自体は、知ってる人は普通に知っている情報だろう。

しかし実は、上遠野作品は非ラノベも含めて単著の全てが「マンガ表紙」なのだ

自分は上遠野作品のそれほど熱心なファンではないので、最近までこの事実に気づいていなかったが、たまたま思い至った時、え?ほんとに?と少なからず意外な気持ちになった。いま初めて知った人たちも恐らく、え?ほんとに?と驚いているはずだ(驚いてるよね?)

本当である証拠に、非ラノベの上遠野作品を一つ一つ確認していこう。

ラノベレーベルの上遠野浩平作品一覧

「戦地調停士」(事件)シリーズ(講談社ノベルス講談社タイガ

殺竜事件 (講談社ノベルス)

殺竜事件 (講談社ノベルス)

ファンタジー世界を舞台にしたミステリシリーズ。超国家的な巨大組織に属し弁舌で争いを解決する「戦地調停士」である仮面の男・EDが主な探偵役を務める。

1作目のタイトルを見ても分かるように、竜を殺した者とその方法は何か?など、ファンタジーならではの謎が扱われている。

初代のイラストレーターは、ゲーム「女神転生」シリーズのキャラクターデザインで有名な金子一馬が担当しており、1作目刊行時には話題を呼んだ。

5作目はやまさきもへじ、6作目と短編集は獅子猿、そして講談社タイガでの文庫版では鈴木康士がイラスト担当だが、いずれも「マンガ表紙」の範疇と言っていいだろう。

「ソウルドロップ」シリーズ(祥伝社ノン・ノベル)

「生命と同等の価値のある物を盗む」謎の怪盗・ペイパーカットを、保険会社の調査員である伊佐俊一(かつてペイパーカットに遭遇した元警察官)と千条雅人(脳にチップを埋め込まれた「ロボット探偵」)の二人が追う。

成人男性主人公によるバディもの。各巻の事件関係者視点で進行する部分も多いが。

イラストは、漫画家の斎藤岬。全巻共通して、ペイパーカットのバストアップが表紙になっている。

『酸素は鏡に映らない』(講談社ミステリーランド講談社ノベルス

酸素は鏡に映らない (ミステリーランド)

酸素は鏡に映らない (ミステリーランド)

「オキシジェン」と名乗る謎の男に出会った小学生男子が、姉と元特撮俳優の青年と共に、幻の「エンペロイド金貨」をめぐる事件に巻き込まれる。

初出の「ミステリーランド」は、主にミステリ系の一般文芸作家が子供向け作品を書くというコンセプトの児童書レーベル。他の作品の装丁はだいたいこんな感じ。

くらのかみ (ミステリーランド)

くらのかみ (ミステリーランド)

神様ゲーム (ミステリーランド)

神様ゲーム (ミステリーランド)

レーベル内で他に「マンガ表紙」が皆無というわけではないが、ラノベおよびライト文芸の表紙でお馴染みのイラストレータtoi8の存在は、やはりそれなりに目立っていた。

『私と悪魔の100の問答』(講談社単行本・講談社ノベルス

私と悪魔の100の問答 Questions & Answers of Me & Devil in 100 (100周年書き下ろし)

私と悪魔の100の問答 Questions & Answers of Me & Devil in 100 (100周年書き下ろし)

  • 作者:上遠野 浩平
  • 発売日: 2010/10/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
女子高生が、親の事業の失敗を収拾してもらう条件として、腹話術?で話す謎の男からの質問に答えることになる。

講談社100周年100冊書き下ろしの中の一作。目次にも「青空と聞いて連想することは」「綽名はどこまで譲歩すべきか」など100の問いが並べられている。

単行本の方は比較的デザイン色が強い表紙になっているが、なんといっても漫画版『フリクリ』『Qコちゃん THE地球侵略少女』に、化物語エンディングアニメのウエダハジメのイラストなので、やはりこれも「マンガ表紙」だろう。

『戦車のような彼女たち』(講談社

戦車のような彼女たち Like Toy Soldiers

戦車のような彼女たち Like Toy Soldiers

  • 作者:上遠野 浩平
  • 発売日: 2012/07/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
世界を裏から動かす巨大な秘密組織「統和機構」に所属する「合成人間」の女性たち(男性少々)の戦いと恋。

雑誌「ファウスト」「メフィスト」に掲載された短編をまとめて長編としたもの。

かなりデザイン色の強い表紙だが、なんといっても漫画版『フリ(略)のウエダハジメが雑誌掲載時に引き続きイラストを担当しているので、紛れもなく「マンガ表紙」。

パンゲアの零兆遊戯』(祥伝社

パンゲアの零兆遊戯

パンゲアの零兆遊戯

未来が視える、と言われる7人のプレイヤーがジェンガに似た競技「パンゲア・ゲーム」に挑む。

表紙イラストはミキワカコ。

『製造人間は頭が固い』(ハヤカワ文庫JA

統和機構の中で唯一、合成人間を生み出すことができる男と、彼に拾われた少年。彼らが様々な「人間」と出会う短編連作。

SFマガジンの連載をまとめたもの。

表紙イラストはサマミヤアカザ。

『恥知らずのパープルヘイズ -ジョジョの奇妙な冒険より-』(集英社単行本・ジャンプジェイブックス集英社文庫

ジョジョ



以上。

ご覧のように、全ての非ラノベレーベル作品が「マンガ表紙」であることが確認できた。

(なお、「ナイトウォッチ」シリーズや「しずるさん」シリーズの新装版を刊行している星海社文庫も、レーベル自身の公式見解では「ライトノベル」ではないということになっているが、余計な混乱を招く可能性があるためここでは省略させてもらった)

他作家との比較

「マンガ絵ばかりだということは分かったけど、そもそもラノベ出身の作家が一般でもラノベ的なパッケージで本を出すのって、そんなにおかしなことなの?」

と疑問に思う向きもあるかもしれない。

たしかに、ラノベ出身であれば一般仕事でも表紙の割合が多少マンガ絵に偏ること自体はそれほどおかしくはない。しかし、一冊残らず「マンガ表紙のみ」というのはどうだろう。それも、よくあることと言えるのか。

このあたりの感覚は、ライト文芸という中間領域が一つの商品カテゴリーとして既に確立された現在では、もはやピンとこないかもしれない。では、上遠野と比較的近い時期の他の「越境」作家*1たちや、その周辺の状況をいくつか見てみよう。

越境作家の代表といえばまずはこの人、直木賞作家の桜庭一樹。越境後作品の多くは当然のように非マンガ表紙だし、ラノベ時代の作品も一般向けのおとなしい装丁で出し直している。

GOSICK ──ゴシック── (角川文庫)

GOSICK ──ゴシック── (角川文庫)

赤×ピンク (角川文庫)

赤×ピンク (角川文庫)

推定少女 (角川文庫)

推定少女 (角川文庫)

冲方丁ラノベシュピーゲルシリーズを数年前まで書いていたし、ハヤカワのマルドゥックシリーズ(寺田克也はギリギリ「マンガ絵」か……?)も継続中だが、世間一般では吉川英治文学新人賞本屋大賞の『天地明察』で時代・歴史小説作家としての印象が強そう。

天地明察

天地明察

  • 作者:冲方 丁
  • 発売日: 2009/12/01
  • メディア: 単行本
はなとゆめ (単行本)

はなとゆめ (単行本)

  • 作者:冲方 丁
  • 発売日: 2013/11/07
  • メディア: 単行本

米澤穂信にいたっては、そもそもラノベ出身であったことすら読者の大半には知られていないという有り様。

氷菓 (角川文庫)

氷菓 (角川文庫)

折れた竜骨 (ミステリ・フロンティア)

折れた竜骨 (ミステリ・フロンティア)

もともと一般レーベル(講談社ノベルス)でのデビューなので「越境」には当たらないが、上遠野に強い影響を受けた作家であり、ラノベ扱いされたりされなかったりする西尾維新にも、非マンガ表紙の著書が複数存在している。

不気味で素朴な囲われた世界

不気味で素朴な囲われた世界

難民探偵 (100周年書き下ろし)

難民探偵 (100周年書き下ろし)

悲鳴伝 (講談社ノベルス)

悲鳴伝 (講談社ノベルス)

また、上でも何作か挙げているが、旧作ラノベの新装版といえば、非オタクでも手に取りやすい穏当な装丁で売り出すのが定石の一つとなっている。

【豪華版】ロードス島戦記    灰色の魔女 (単行本)

【豪華版】ロードス島戦記 灰色の魔女 (単行本)

  • 作者:水野 良
  • 発売日: 2013/10/29
  • メディア: 単行本
涼宮ハルヒの憂鬱 (角川文庫)

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川文庫)

  • 作者:谷川 流
  • 発売日: 2019/01/24
  • メディア: 文庫

一方、昨年のアニメ放送に合わせて発売されたブギーポップの新装版単行本の場合、オリジナルの文庫版同様に緒方剛志が表紙と挿絵を担当し、それぞれ新規イラストを描き下ろしていた。

ブギーポップは笑わない

ブギーポップは笑わない

ラノベ出身だとしても、一般に越境しながらマンガ表紙のみというのがいかに特殊なことなのか、分かってもらえただろう。さすがに同様の作家が他にはゼロということもないだろうが、珍しいケースであるのは間違いない。


理由

一般レーベルでの著書がマンガ表紙のみ。なぜそんな奇妙な状況になったのか。思いつく理由は二つほどある。

一つ目は、単純に内容の問題だ。

上遠野作品は、ごく一部の例外(書籍になっているものではジョジョのスピンオフである『パープルヘイズ』)を除いて、全ての作品が作中世界を共有しており、同じ登場人物が複数の作品に登場することも珍しくない。異世界ファンタジーの事件シリーズでさえ、現実風世界が舞台の他作品群と特殊な形で繋がっている。

つまり、全ての上遠野作品は表面的なジャンルを問わずその背景に、ブギーポップシリーズ同様、「統和機構(秘密組織)」やら「合成人間」やら「MPLS(超能力者)」やらが存在していることになるわけだ。

ラノベレーベル作品においては、特に『戦車』や『製造人間』があらすじ等の段階でそのような設定に基づいたストーリーであることを露骨に明かしているが、実際のところ他もそれほど大きな差はない。ちょっと油断するとすぐ能力バトルが始まってしまうような作品ばかりだ(言い過ぎ?)

そのような小説は一般的に、いい大人が読むものとは見なされにくい。

なにも、非現実的な要素の存在が即、大人向け小説として不適格であることを意味するわけではない。たとえば、ミステリを中心に活動している伊坂幸太郎などもその作品の中に、死神や超能力といった非現実の存在をしばしば取り入れている*2

死神の精度 (文春文庫)

死神の精度 (文春文庫)

魔王 (講談社文庫)

魔王 (講談社文庫)

しかし、それらを物語中に置いた上で、小説としてあくまで「いい大人が読むもの」に見えるような、スマートな書き方がされているため、伊坂作品が「ラノベ的」といった評価を受けることはほとんどない。表紙も、確認した限りでは全てが非マンガ絵だ。

これが上遠野作品の場合は、一般でもラノベ同様に「う、ううう……」なので、まあ、その……

一例として、はてブでもこんな声があった。

アニメ化直前ブギーポップシリーズ現状報告(ある程度の既読者向け)

ミステリーランドで普通にいつものブギーポップし始めたの、割と真面目に感性の違いを感じて、追うのを辞めてしまった。

2018/12/26 11:23

そういった点も含めて、上遠野作品はマンガ表紙が似合う、というより非マンガ表紙があまり似合わない作風なので、素直にマンガ表紙が採用され続けているのだろう。この説明が最も分かりやすい。

二つ目の理由としては、デビュー時の印象が考えられる。

上遠野のデビュー作『ブギーポップは笑わない』は、当時のラノベ業界の内外に大きなインパクトを与えた。それは、ザッピング的な構成などの小説としての作品内容自体もさることながら、イラストの緒方剛志とデザイナーの鎌部善彦によるあの表紙の力も当然大きい。

あの『笑わない』表紙によって、マンガ絵の「強い」イラストと「強い」デザインの組み合わせによる小説表紙の可能性が、出版関係者に深く印象づけられたのではないだろうか。そして、自分もああいう本が作りたいと思ったのでは。

殺竜事件』での金子一馬起用などはモロにそのパターンだろうし、ラノベレーベルでの話だが、ナイトウォッチシリーズのイラストに本業がアニメーターである中澤一登を持ってきたのにも、同様の志向を感じる。

現在では、「強い」マンガ絵と「強い」デザインの組み合わせはさほど珍しくなくなり、相対的に価値が目減りした。それでもデビュー作の強烈な印象が尾を引いて、上遠野作品は一般レーベルでも従来通りの表紙で出続ける結果となっている、というのはどうか。これはまあ、一つ目に比べれば我ながらちょっと弱いが。

まとめ(ない)

ライトノベルというジャンルでは逆説的に、そして半ば伝統的に「ラノベらしからぬ」ことが一つの価値を持つ。

ラノベらしからぬ」アピールとして、ラノベレーベル内で敢えて非マンガ絵の表紙が採用されたことも何度かあった。

僕らはどこにも開かない (電撃文庫)

僕らはどこにも開かない (電撃文庫)

夏月の海に囁く呪文 (電撃文庫)

夏月の海に囁く呪文 (電撃文庫)

上遠野浩平もそのデビュー当時は「ラノベらしからぬ」ことが高評価の一つの理由だったことは間違いないし*3、だからこそ「越境」も可能だったはずだ。

そして、デビュー作シリーズのヒットによりラノベ内の流行を異世界ファンタジーから現代ものに変化させるきっかけ(のあくまで一つ)を作り、今となっては空虚なお祭り騒ぎだったかもと思わないでもない「ラノベブーム」でラノベが批評家たちから目を向けられ*4、上で挙げた錚々たるラノベ作家たちが「越境」を果たす遠因(のあくまで一つ)ともなった。

そんな上遠野自身が、振り返ってみれば、越境先でもラノベ時とそう変わらない内容の小説を書き、全作マンガ表紙=ラノベ的なパッケージで売っているという、この奇妙にねじれた状況。これをどう捉えるべきだろうか。

インタビュー等を読めば、上遠野本人にはライトノベルというジャンル・手法自体に思い入れも帰属意識もさほどないことが伺える。だから別に、ラノベ代表としてラノベ領域の拡大を自覚的に意図してこんなことになったわけではないのだろう。

(結果的に、一般文芸とラノベの中間としてのライト文芸の先駆けの一つとなった、とは言えるかもしれないが、少なくとも上遠野の作風は現在のライト文芸の流行ともまた異なっている)

上遠野自身が「ラノベらしからぬ」のハードルを引き上げたことにより、上遠野の作品自体が「ラノベらしい」側に含まれるようになってしまった、ということなのだろうか。上遠野浩平という作家は、ラノベと一般文芸にとっての「触媒」だったのか。

答えは分からないが、ただ、おもしろいなあ、とは思う。これってなんかおもしれえなあという、それだけの気持ちでこの文章を書いた。

あとのちゃんとした文化論的?な意味付けは、批評家や研究者といった専門家の方々にお願いしたい(丸投げ)

目の前の状況をおもしろがるだけの無責任な読者としては、もしもこれから「非マンガ表紙」の上遠野作品が現れるとしたら、それは一体どういう内容になるのかが気になっている。予定だけ発表されている新作は色々あるみたいだけど、今のところどれもあまり非マンガ表紙っぽくはないね……


1.ブギーポップストレイン
2.闘神と蠍のフーガ
3.叛乱と霰のワルツ
4.はりねずみチクタのぼうけん
5.クレイジーDの悪霊的失恋(仮)
6.獅子が嫉妬を征服するまで
7.ギズモ・ギスト散華
8.Q星から来た少年
9.アビス・アガルタへの巡礼
10.奇帝国事件
11.彼女が俺には才能があるというので(仮)

*1:当時はライトノベル出身の作家が一般文芸でも仕事を始めると、「越境」という大げさな言い方をされた。

*2:余談だが、伊坂作品も作品間で登場人物や舞台を共有する手法を用いている。

*3:念のため言っておくが、当時は「ライトノベル」という言葉はまだ一般に認知されていなかったが、実質的なジャンルとしては既に存在した。

*4:個人的な感情としては「目を付けられ」と言いたいところだが。

イキリオタクのイキる道

これらのツイートに賛同する形で、はてなブロガーの「あままこ」こと天原誠( id:amamako @amamako )氏が、こんな記事を投稿しました。

要約すると、「『辛口批評』とは、大衆に媚びたメジャーな文化になじめないごく一部のセンスのある人々がアイデンティティを確立するために必要なものであるから許容すべき」という主張のようです。

ほとんどの場合、大衆に売れるということと、真に価値のある優れた作品であることは二律背反です。大衆というものは「より性的に扇状的であること(シコれる)」とか「爽快感がある暴力(メシウマ)」とかみたいな、単純に快楽になるものしか理解できません。ちょっとでも複雑であったり、二面性のあるメッセージを投げかけるだけですぐ「つまんねー」と投げ出します。そういうのを理解できるセンスのある人というのはごく僅かなのです。

そういうごく僅かのセンスある人達がいくら「この作品は駄目だ!」と叫んでも、大衆にはそういう作品こそが売れるわけで、批評には、コンテンツを変える力なんかまるでないのです。

では、批評にコンテンツを変えることが不可能だとしたら、批評なんてせずに、それこそ「定型文と画像で褒め合うクソみたいな学級会文化」に浸るしかないのでしょうか?

ですが、これは僕がかつてそうだったからこそ言えるのですが、そういうコミュニケーションで満足できず、「自分の見た作品が、どういった点から優れているか/劣っているか」ということを考えて、言葉にしたい人というのも、世の中には一定数いるのです。

そういう人は大体の場合、世間の大多数に売れている、メインカルチャーに属する作品になんとなく違和感を感じています。そしてこう思っています。「なんで世の中の人はこういう作品が好きなのに、自分は好きになれないんだろう」と。そしてその事に対し何故か後ろめたさを感じ、その後ろめたさを何とかするために「いや、自分はこういう理由でこの作品が嫌いなんだ。だからこの作品を自分が嫌いなのは正しいんだ」と、理論武装をするのです。(別に誰にもそんなこと求められてないのに)

それこそが「辛口批評」の正体なのだと僕は思います*1。そして、そういう言葉を紡ぐこと自体は、ある時期には必要なことなのだと思うのです。

例えば、僕は記事の最初にいくつか過去に書いたアニメ批評を載せました。これらの記事は、たしかに素っ頓狂かもしれません。ですが、今読んでもそこには、自分のアイデンティティーをいかに形成しようか、その苦闘の痕跡が見えるのです*2。

びっくりするほど恥ずかしい自画自賛だけど、実際そう思うから仕方ない

そうなんですね。勉強になります。

さて、実のところこういう感じのことを言い出す人はネットではぜんぜん珍しくありません。

最近見かけた例ではこんなのがありました。

ガンダムという超メジャーコンテンツの小説版や田中芳樹京極夏彦が好きな程度のことで「メチャ偏ってます」と言い切っている内容はともかく、カッコの使い方は非常に独特ですね。

こういう、良くも悪くも自分をひどく特殊な少数派だと思い込んでいる(実際は掃いて捨てるほど「仲間」がいる)オタクのことを、わたしは「イキリオタク」と呼んでいます。本来の用法とは若干ズレているかもしれませんが、このエントリ内での「イキリオタク」は全てこの意味だと思ってください。

諸事情あって、このようなイキリオタクの方々を長年眺め続けてきて、どうもこの人たちは何か勘違いしているんじゃないかな?と思うことがあります。

イキリオタクは、メジャー文化を無批判に受け入れている「大衆」と、そこに違和感を覚える自分たち(センスから生まれたセンス太郎)の間にいとも簡単に線を引きますが、その区分はそんなに絶対的なものでしょうか?

ある超超超メジャー作品、今ならたとえば鬼滅の刃?とかをめちゃくちゃ好きな人がいたとして、同じ人が別の現役超超超メジャー作品、たとえば進撃の巨人は死ぬほど嫌い、という状況は簡単に想像できるでしょう。また、マンガは鬼滅を読みながら、音楽はZUNTATAの「電脳皇帝」*1を聴いている人だっているかもしれません。

電脳皇帝 (Stage5 Area20)

電脳皇帝 (Stage5 Area20)

  • 発売日: 2013/11/13
  • メディア: MP3 ダウンロード

あらゆるメジャー文化を分け隔てなく享受し、また、好きなものの中にマイナー文化が一切含まれない理想的な「大衆」は、むしろ少数派なんじゃないかとすら思えます。

そして、マイナー好きでマイノリティでセンスマンを自認するイキリオタク(イキリオタクはなぜか「センス」という言葉を好みます)にしたところで、メジャー作品の中に素直に好きと言える作品がただの一つもないという人は、そんなに多くはないでしょう(まあこれには、たとえメジャー作品を愛好するとしても大衆とは消費のし方が違うのだ!といった反論が返ってきそうですが、それを言うなら「大衆」によるメジャー作品受容だって、やはり実際は色んな形があり得るはずです)

こういう、

(自分の中にも大なり小なり「大衆」性が確実に存在するんだろうな)

とか、

(自分の目には「大衆」にしか見えない人々にも、解像度を上げればそれぞれ「大衆」からはみ出す部分があるかもしれない)

とかいった反省が一っっっ切なしに、自分自身とは完全に切り離された形で「大衆」という言葉を軽々しく使ってるのを見ると、さすがに背筋がゾッとしてしまいますね。

再度引用します。

大衆というものは「より性的に扇状的であること(シコれる)」とか「爽快感がある暴力(メシウマ)」とかみたいな、単純に快楽になるものしか理解できません。

無知蒙昧なる「大衆」と、それとは根本的に異なる自分(たち)という、セカイ系も真っ青の単純素朴なセカイ観。「選民思想」と大書きされてるような選民思想

今は21世紀で令和ですよ。失礼ですが、お嬢様はいつの時代の貴族様でいらっしゃいますか?

謎解きはディナーのあとで (小学館文庫)

謎解きはディナーのあとで (小学館文庫)

いや、まあ、分かりますよ?同級生とは話が通じないし、今の売れ線作品よりも過去のマニアックな作品の方が好みに合うし、ときどき封印された右腕が疼くし、オレってもしかして〝特別〟なのでは?とつい思ってしまうことは、そこそこ自然な心の動きだとは思います。人間(特に中高生)にとっての世界が、自分の半径10メートルで完結してた90年代ぐらいまでなら。

でも、誰でも気軽にネットに接続してググることが可能になったその時点で即座に、あ、オレ、もしかして……ぜんぜん特殊な感性してないな!?って気づくものではありませんか?普通は。

イキリオタクの人々は、自分と似たようなことをやったり考えたりしてる人は世の中にいくらでもいるし、往々にして自分よりもずっとずっとレベルが高い、という事実にぶつかって、絶望を感じたことがないんでしょうか。似たようなものが世界にいくらでもある中で、それでもありふれた一山いくらの安っぽい「この自分」の感性を大事にしたい、という姿勢ならともかく(わたしのスタンスはこれに近い)

なぜイキリオタクの人たちは、ここまで無邪気でノーテンキに「自分」の価値を信じられるのか。多少のパラフレーズはされてるにしても、言ってることが要はまとめサイト的な感性そのまんまだったりすることも少なくないというのに(おもしろいことにそれを言う当人はまとめサイトを嫌っていることが多い)

さすがに……さすがに、頼むから身の程を知ってくれ、と言いたくもなります。



まあ色々言いましたが、書きたければ今でも自由に書けばいいと思いますよ、自分(イキリオタク)のアイデンティティをどうこうするための「辛口批評」。別に法律で禁止されてるわけではないんだから。実際、わたしの目からは現在でもわりと活発に行われてるようにも見えますけどね。

ただ、それが世間に受け入れられなかったからといって、オタクの軟弱化が〜とか、「シコれる」と「メシウマ」しか理解できない大衆が〜とか逆ギレし出すのだけは絶対にやめてくださいね。イキることは全て自己責任でお願いします。

そもそも、作品批評は「辛口批評」と「○○はいいぞ」の二択なんかでは全く無いので、たとえメジャー文化に対する強い違和感を吐き出す場合でも、わざわざ「辛口批評」という形を取ることに必然性はほとんどないと思いますね。やっぱり根本的に、火遊びがしたいだけなんじゃないの?(ここに関してだけは人のことは言えない)



最後に余談ですが、あままこ氏( id:amamako @amamako )は、アイドルマスターというものがお好きなのだそうです。

 

あいますといえば、隆盛を極める我が国の2次元アイドルコンテンツの中でも、頂点と言っていいほどの超超超超超メジャー作品。「メインカルチャーに属する作品になんとなく違和感を感じてい」るあままこ氏がそんなプロレの餌を愛好していらっしゃるとは意外です(「「でもこういう穿った見方すればメインカルチャーも楽しめるじゃん」という風にうまく軟着陸させ」た結果かもしれませんが)

ちなみにわたしは、あいますの関連作品に一つも触れたことがありません(及川雫の同人誌以外は)

別に、「メインカルチャーに属する作品になんとなく違和感を感じてい」たわけではなく、なんとなく縁が無かっただけです。

わたしがやったことがあるアイドルゲームといえば、『ときめきアイドル』と『スクールガールストライカーズトゥインクルメロディーズ~』ぐらいかな……(いずれもサ終→オフライン化済み)

*1:自分が最近初めて聴いて感動したというだけで、特に意味のない選曲。そんなもん全然メジャーの内だろ!という批判には、素直にごめんなさい。本当のマイナー音楽ってたとえば何?スーパーデッドヒートII?

「ライトノベル」の書き方・おまけ

この記事で挙げたポイントを全て守って小説を書けば、ほぼ間違いなく完全な「ライトノベル」が出来上がるはずです

という言葉に嘘はありません。

(自分はラノベ定義にレーベル・パッケージ主義を採用しているので、ここで言う「完全な『ライトノベル』」とは、もし出版するとしたらラノベ専門レーベル以外ではまず無理な小説、という意味です)

ただ付け加えるなら、あれはあくまで「いかにもラノベらしいラノベ」を書くための注意点に過ぎず、賭けてもいいけど「面白いラノベ」になることは99パーセントないでしょう。ちゃんと確認はしてませんが、これまでに大ヒットしたラノベの中であれを全て満たしてる作品なんて、ほぼ無いんじゃないでしょうか。

マンガ絵が付いたアニメみたいな内容の小説が物珍しかった大昔ならいざ知らず、今となっては「ライトノベル」であることそれ自体には、大した価値はないのです。良くも悪くも。

カテゴリーそのものに内在しているわけではない面白さをどこから引っ張ってくるのか。ざっくり分けると、流行をリサーチしてエミュレートするタイプと、自分が素直に信じられる面白さをラノベという枠に押し込むタイプがいるわけですが、どちらかといえば、初心者ほど後者の方向性で考えた方が近道なんじゃないかと、個人的には思います。

もちろんそれにも、最低限「自分が何を『面白い』と感じるのか」という価値観、大げさに言えば思想に、作者本人が自覚的になる必要はあります。自分の中に確固たる「面白さ」の基準があればこそ、「ラノベの書き方」に対して、これは従う、そこは絶対に譲れない、といった判断も可能になるわけです。

ラノベが書けない」と訴える文字書きの多くは、そもそもこの辺があまり固まってないような気がしますね。

(この文章は全て、ラノベを含めて長編小説を一本も書き上げたことのない人間の意見です)