い(い)きる。

生きることは言い切ること。

一ピョウの格差

 放課後、部室へ向かう衆子の歩みはいつもより少しだけ速かった。急ぐ必要はないが、自然と足が前へ前へと進むのだ。

 衆子の頭の中は、さきほど行われた生徒会役員選挙のことで一杯だった。

『全校生徒のみなさんこんにちは。この度、生徒会長に立候補いたしました2年D組の姫川先恵です。私がこの選挙にあたって掲げる目標は、公平・公正です――』

 文芸部の先輩である姫川先恵。生徒会長に立候補した彼女が壇上に立って演説する光景を、衆子の脳は何度も繰り返し再生する。

『各部活動の実態とそぐわなくなっている、グラウンド・体育館の使用割り当てを全面的に見直し、改めて分配を――』

 理想と現実的な課題をバランスよく織り交ぜた演説の内容ももちろん素晴らしかったが、何より、長く艶のある黒髪にライトを浴びて堂々と聴衆に訴えかける先恵の姿が目に焼き付いている。ふだんから間近で見ている衆子ですら見とれてしまったのだから、他の生徒たちはなおさらだろう。

『――以上が、私が生徒会長になって実現したいこと、実現できることです。皆さんの大切な一票を、どうか私に預けてください』

 衆子はもちろん先恵に投票した。部活の先輩ということを抜きにしても最初からそのつもりだったが、先恵の演説を見て、生徒会長にふさわしいのはこの人だと心から思えたのだった。

 投票用紙に先恵の名前を書き入れながら、そして投票箱に用紙を投入する瞬間にも、衆子は先恵の当選を強く祈った。どうせ心配しなくとも、もともと一年生を中心に人気が高い先恵の当選はほぼ確実だし、衆子の一票など高が知れている。それでも、祈りを込めずにはいられなかった。

 部室で先恵に会えたら真っ先に、『わたし、先輩に投票しました!』そう告げようと衆子は思う。

 生真面目なところがある先恵だから『投票先を軽々しく他人に漏らすのはあまり感心しないわ』と叱られてしまうかもしれない。それでもいい。少しでも先恵のためになるのなら。

 そんなことを考えながら歩いている内に、衆子は文化部の部室が並ぶ廊下に着いていた。

 「文芸部」というプレートのついたドアの前で大きく息をつく。そして、ノブへと手を伸ばしたその時。

「――もしかして先恵、不安だったりするの?」

 室内からそんな涼やかな声が聞こえてきて、衆子は動きを止めた。部員のものではないが、衆子にも聞き覚えのある声だった。

 先恵の友人である、若王子友実だ。ひとこと耳にしただけで、すらりとした長身と少年のようなショートカットが思い浮かぶ。

 友実は陸上部の短距離走者だが、先恵をたずねて時々この部室に訪れることがあった。衆子とも顔見知りだ。

「……そんなの当たり前じゃない。選挙なんて初めてなんだから」

 友実の言葉に応えたのはやはり先恵だったが、その声は思いのほか弱々しかった。選挙演説の時とは対照的な先輩の様子に、衆子は胸を突かれた。

「他の候補の人たちも、それぞれ私には無い視点を持っていたし……」

「そうかなあ。先恵のがいちばんちゃんとしてたように見えたけど」

「ちゃんと、って……もう、いい加減なんだから」

 友実の楽観的な物言いに釣られてか、先恵の声に笑いが混じっていた。いま部室にいるのはこの二人だけのようだ。

 3年生や1年生、というより衆子がいる場では見られない、同い年の親友同士が形づくる親密な空気。その甘い圧力を前にして、衆子は固まっていた。

「まあ安心しなよ。わたしは先恵に入れたからさ。少なくともゼロ票ってことはないよ」

「投票先を他人に漏らすのはあんまり良くないんじゃない?」

 ――あ……

 それは、衆子が言いたかった言葉で、言われたかった言葉だ。

「でも、そうね――」

「ん?」

 部屋の中でかすかな衣ずれの音がした。

「ありがとう。友実の一票が、いちばん嬉しい」

 ドア越しの気配だけで、衆子には分かってしまった。

 先恵は、友実の手を握った・・・・・・・・のだ。

 ――!

 はじかれるように、衆子はその場から音もなく駆け出していた。たったいま歩いて来たのと逆方向へ。

 本来は決して運動が得意ではないはずの衆子の脚は、瞬時に最高速に達してそれを保ち続ける。身体が、ひどく軽かった。

 まるで、自分の一票が重みを失ったことに合わせるように。

 すべてが嘘だったのだ、と思った。先恵が自分だけに見せてくれたような気がしたあの微笑みも、友美がかけてくれた「衆子はかわいいなあ」という言葉も、法の下の平等も。何もかも全て、戦後民主主義の歪みであり、日教組の洗脳であり、GHQWGIPなのだ。

 涙が、一粒だけこぼれた。

 鞄を持った制服姿の全力疾走に目を丸くする上級生や同級生をかわして廊下を走り抜け、階段を5段飛ばしで駆け降りる。風となった衆子は、あっという間に昇降口までたどり着いた。

 そして、上履きを蹴り飛ばすように脱ぎ捨ててローファーに履き替え、学校という檻の外へと飛び出したところで。

 衆子は、偶然たまたま目の前を横切っていく二人のお百姓さんに出くわした。

「……」

 お百姓さんとの遭遇とあっては、失恋したての女子高生といえども足を止めざるを得ない。

 お百姓さんたちは、二人ともそれぞれ一つずつ米俵を背負っており、体格にもそう違いはない。それなのに、一方のお百姓さんは足取りも軽くすいすいと前に進んでいるが、もう一人は、一歩を踏み出すのにも苦労するといった様子で、相棒にだいぶ差をつけられている。

「…………」

 それもそのはず。同じ米俵といっても、先行するお百姓さんが担いでいるのはせいぜいリュックサック程度のサイズだが、遅れている方は本人の身体より大きな俵に背中を押しつぶされそうになっている。確実に60kg以上はあるだろう。

 汗みずくでマゲも乱れて「お、おでぇかん様ぁ……」と苦しげに喘いでいるのも無理はない。

「……………………」

 そんな、あまりにも不公平なお百姓さんたちの姿を、衆子はひどく冷静な目で眺めていた。それは、世界が自分を顧みないのなら、自分も世界のことなどどうでもいいというような、冷たく、乾いた眼差しだった。

 そこにはもはや哀しみの涙が無い代わりに、期待の輝きも消え失せている。

「はあ……」

 そして衆子は、夢見る少女の時代と訣別し現実の荒野へと踏み出す――それを成長と呼ぶ向きもあるだろうが筆者は与したくない――、決定的なひとことを口にした。

「はいはい一俵の格差ワロスワロス


I vote you so much……