水星の魔女一期最終回とスレミオ血まみれファンアート
ガンダムシリーズTVアニメ最新作『機動戦士ガンダム 水星の魔女』の一期最終12話が先週放送された。
グエルとヴィムのジェターク親子の再会や、改修されたガンダムエアリアルの大活躍など見どころはたくさんあったが、最も強い印象を残したのはやはりCパートのラストシーンだろう。
母プロスペラによって、ほとんど洗脳にも等しい「指導」を受けたスレッタは、ミオリネを助けるために、なんとエアリアルを使って兵士を殺害してしまう。潰れたトマトのように、舞い散る血と肉片。だがスレッタはそんな凄惨な光景に怯むどころか、ニコニコ笑いながらミオリネに血染めの手を差し出す。常軌を逸したスレッタのふるまいと、目の前で人が無残に殺された衝撃に打ちのめされたミオリネは、「なんで…笑ってるの?人殺し。」とスレッタに告げる。
血にまみれたガンダムとスレッタの手。無邪気なスレッタと絶望的なミオリネのあまりに対照的な表情。1話ラストを反復する跪くガンダムのラストカット。そして何より、二人の関係はこれからどうなっちゃうの~~~~???というところで一期の幕を下ろす絶妙なクリフハンガー。
これらのインパクトが混然となった結果、放送直後から阿鼻叫喚の大反響となり、今回の内容を反映したスレッタとミオリネのカップリング二次創作イラスト、いわゆる「スレミオ血まみれファンアート」も無数に量産されている。いやあ眼福眼福。
透明化される死者
ここで感心するのは、スレッタが(初めて)殺した相手が「(現時点では)顔も名前もない存在」に設定されていることだ。
エアリアルの右手でペシャンコに叩き潰されたテロリストは、反スペーシアン組織「フォルドの夜明け」のメンバーではあるのだろうが、作中で本人の名前が明かされることはない。
また、他のモブテロリスト達同様に宇宙服で全身を包んでおり、その顔はマジックミラー的なヘルメットで見えなくなっている。
登場時に「見つけた……デリング・レンブラン!地球に帰れなくても、お前とはここで刺し違える!」と、モブにしてはやや長めのセリフを喋っているものの、さすがに人物像を推し量れるほどの内容ではない。
そして、「フォルドの夜明け」はテロ組織とはいえ、現時点ではスレミオの2人にとって「憎むべき敵」ですらなく、良くも悪くもどうでもいい存在である。スレッタの行動も、デリング(と同行しているミオリネ)が殺されるのを防いだ正当防衛・緊急避難に近いものであり、現実でならともかくアニメにおいてはまあわりとセーフ寄りの殺人だろう。実際、ミオリネがあそこまで顔を引きつらせて「人殺し」などというセリフを吐いていなければ、視聴者の多くは、あ、今回のファーストキルはこんな感じなのね?フーン……程度の反応で流していたのではないだろうか。
(その意味ではミオリネの「人殺し」が過剰反応すぎるという意見も分かる。本質的にどうでもいいはずの死に対して敢えて大げさに糾弾してみせるのは、いわゆる「安全に痛い自己反省パフォーマンス」に近い手法かもしれない。
https://numagasablog.com/entry/2023/01/12/180715
ミオリネにしても別人のように様子がおかしいスレッタに、いくら動揺してるからといって、開口一番「人殺し」なんて言うかな…?
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ここで描かれているのは、誰でもない、誰でもよい人間の死だ。いわば、死者が徹底的に匿名化、透明化されているのだ。
ショッキングな出来事としての死を描写しつつ、キャラクター(一個の人格)の消失という側面はほぼ完ぺきに捨象することによって、このイベントは純粋にスレッタとミオリネ(あとはせいぜいスレッタの母プロスペラぐらいか)の間の感情的な問題に集約されることになる。それはスレミオ血まみれファンアート的な関係性消費を後押しこそすれ、邪魔になることはほぼないだろう。むしろ、作品自体がそれを公認・推奨しているとすら言える。
仮にスレッタが殺したのが、敵であれ仲間であれ名前のある、視聴者がその固有性をある程度理解しているようなキャラクターだったら、その血が誰のものかという部分を否応なく意識させられることになるせいで、恐らく今ほど無邪気な消費のされ方(バズ)にはなっていなかったと思われる。そういう世間の空気を正確に読み切ってほどほどのラインを突いてきた制作サイドのバランス感覚というか嗅覚の鋭さには、感動を通り越して畏怖の念すら抱いてしまう。
(最終回には批判的な上記ブログにおいても、その矛先はあくまで、スレミオに殺人の業を背負わせたことのみに向けられており、この点に関してはまんまと作り手の術中にはまっているように見える(「スレミオしか語らん」というタイトルなので一貫はしているが)
https://numagasablog.com/entry/2023/01/12/180715
しかしそうした「力への批評」をする上で、そのツケを(まるで残酷ショーのように)最も過酷な形で払わされるのが、本当にスレッタとミオリネであるべきだったのだろうか。「相対化」の矛先が向けられるべきは、本当に彼女たちの振る舞いだったのだろうか。
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「誰でもない死者」の血が、女女の関係を彩る呪わしくも美しいアクセサリとして描かれた達者なイラストの数々をヘラヘラと眺めながら、これが現代の最先端アニメというものなんだなとボンヤリ思う。*1